音もなく開いた部屋からは、黴や、以前住んでいた人の臭い、放置された家特有の澱んだ空気が流れてきた。とにかく散らかっている。ひどく散らかっている。足元に気をつけながら、「あるところ」へ向かう。
 「あるところ」には、今回の仕事で使えそうな「物」がある。ものすごい埃と黴だ。以前住んでいた「僕」の「昔の姿」でもある。ジョン・バーリコーンが言う。「俺に呑まれていた昔はどうだい」と。やれやれ、君とは長い付き合いだったよ。切っても切れないね。でも、君とはさよならをだいぶ昔に言ったはずだ。「君」がささやいたその声は、時間のゆがみから来ているのだろう。ここまで「放置」していた所だ。ちょっと「時間」がおかしくなっても、少しも不思議とは思えない。むしろゆがんだ時間こそ、この場所に似合う。
 さて、早くここを去りたい。…ひどい姿だ。「昔の仕事」とはいえ、君はこんな姿だったのかい?いや、君の姿は過去の僕そのものだ。僕は「過去」を「封印」ではなく、「断ち切る」必要がある。乱暴に、でも丁寧に、仕事に使う道具を取り出す。使えるものなのかどうか、僕にもわからない。今の僕にできることは、とにかくこの部屋から必要な物を取り出し、部屋の扉を閉め、錠をかけて、なにかを「断ち切る」ことだ。
 必要なものはあった。一つだけ計算が狂った。「あるもの」が壊れている。いや、過去を断ち切るためには、それを新たに用意するのも悪くない。こん、こん、と咳が出た。これ以上この部屋にとどまっていることは無理なようだ。物を掴んで、抱いて、部屋の扉を閉めた。すぅっと「何か」が消えた。そして、「現在」が戻ってきた。一体君は、なにをしてきたんだ?と、「過去の僕」に問いかける。
 がちゃんと音を立てて錠がかかった。短い過去への旅だった。できれば、こんな旅はしたくない。けれども、この「部屋」を尋ねるたびに「過去」への扉が開く。部屋の扉は「過去への扉」だ。がた、がた、と錠がかかったことを確認して、朝日の中に出る。平和な、何事もない朝だ。自転車に乗った人が、音もなく通り去ってゆく。僕は目を閉じ、首を振った。…大丈夫、これは現実だ。現実の朝に戻っただけだ。僕はこの場所に、過去の僕すべてを置いてゆくことにする。
 朝日の中を、僕は歩いてゆく。スニーカーは音を立てず、僕を一歩一歩「現実」へと運んでゆく。何事もない、平和な朝だ。歩きながら僕は、手にしている「物」を見る。使えるものかどうかは、あとで考えればいい。部屋の扉は、現在へ戻ってゆく僕を見送っている。僕は決してその方向を見ないようにする。犬を連れた上品な婦人とすれ違う。僕はまっすぐ、自分の住む場所へ、「現在」へ歩いてゆく。僕は部屋が見えなくなるまで、目線を上げ続けることを忘れなかった。