「書け」と云う。引き受けたのはこちらなので、こちらの都合なのだが、相手にも都合がある。原稿を渡すと云ったのは一昨日の話なので、列車で例えるなら可成りの遅れである。然しながら、あっちを押しても、こっちを押しても、思い浮かばないのである。傍らには出版社からの遣いが待っている。最初は正座していていたが、余りにこちらがのんびりしているので、すっかり崩れてしまい、私が積んでおいた本を勝手に捲っている。其れ位は目鯨を立てずに居ないと、何を云われるか分からない。何も書いていない原稿用紙を前に、うーん、うーん、と、唸っているのである。
 少しは文章らしいものが浮かんだので、数行書いたが、どうにもこうにも、据わりが悪い。書いたはいいが、まるで馬車が何台も通り過ぎたような散らかった文章で、とても人様にお渡し出来る物ではない。原稿用紙は丸めて、屑箱へ放り込んでしまった。
 また真っ白い原稿用紙の前で、欠伸をしてみたり、伸びをしてみたりしているが、浮かばないものは浮かばない。出版社君を帰してしまいたいが、彼は彼で都合があるだろう。手ぶらで会社へ帰ると云うことは、彼にとっては仕事を放棄したことになる。矢張り原稿を受け取るまで、傍らにずっと控えているのだろう。
 字引を引くふりをして、時刻表を開いてみた。東海道本線を開いたので、きらびやかな特急列車やら、地味な普通列車やらが、まるで見本市のように並んでいる。今直ぐにでも乗りに行きたい気もするが、最大の問題は目の前の原稿用紙である。真っ白い儘では、何も出来ない。自分から鳥籠の中に這入ったような感じだ。
 細君が、夕食はどうする、と云う。うまい具合に都合をつけろ、と云った所、ぷいと障子を閉めて行ってしまった。細君には細君の都合があるのだろう。
 やっと万年筆を持ち、のろ、のろ、と、文章らしき物を捏ち上げ始めた。出版社の遣いに渡してしまえば、内容はどうであれ、先づは原稿を持って出版社へ帰るだろう。田舎の鈍行列車のような速度で、のた、のた、と、捏ち上げた文章は続く。捏ち上げないと、私は鳥籠から出ることが出来ない。自分から這入った鳥籠から出られないというのは、理不尽でもあり、当然でもある。
 やっと捏ち上げが終わった。もう読み返す気も起きず、出版社君に渡してしまった。出版社君は原稿を一瞥し、先生有難う御座いましたと礼を云い、帰って行った。そういえば夕食を食べていない。細君を呼ぼうかと思ったが、ぷいと行ってしまったのだから、私から頼み事はし辛い。私は其の儘畳へ寝っ転がって、つまんないの、と呟いた。