他人の原稿は五分に一遍覗きに来る癖に、自分の原稿は放ったらかしの友人が居る。先程も何か変わった事は無いかと覗きに行ったが、原稿用紙には週末に書かれた大陸語の話が其の儘に成って居た。本来の私は独逸語の教師の筈だが、偽物の私は覚束ない大陸語にひいひい云っている有様である。此の間などは其の友人に騙されて辞書まで買わされた。尤もその辞書のお陰で、此の様に偽物の「捏ち上げ」に磨きが掛って居るのだから、本来は感謝すべきなのかも知れない。けれども、彼の處の昨日と寸分と変わらぬ原稿用紙を見るに附、何とか成らぬかと云いたくなって仕方が無い。
 彼は明治、大正の文学を好むと云う。私は歴とした明治弐拾弐年生である。あるが、残念乍ら私は昭和者が造る「捏ち上げ」である。何処迄「ほんもの」に化ける事が出来るかと、昭和者は文庫や字引を引っ繰り返しては、押したり引っ張ったりして喜んでいる有様である。「ほんもの」としては堪った物では無いが、既に口が利けぬので云われるが儘にしているのである。私は在りし日に撮られた、駅長の制服を着て「はと」の展望車に乗り、眼光鋭く収まった写真が在る。今の私に出来るのは、その写真を通して昭和者を睨み付ける事だけである。
 其れにしても彼は原稿を書く様子が無い。此方から彼の様子を伺う術は無いが、辛うじて見える原稿用紙は土曜の夜更けに書かれた儘である。彼は熱心な研究家で或るから、若しかすると彼は研究の真最中なのかも知れない。そして昭和者は此処にうっかり村上春樹が混ざりそうになり、真っ青な顔で頭の中の筋書きを書き直して居るのである。私一人を真似るだけでも戦後教育の昭和者には大変な作業の筈なのに、何故そんな器用な事が出来るのか。そんな器用な事が出来るので有れば、何か金になる仕事でも手に付ければ良いものを、と「ほんもの」の私は考えるのである。
 大分夜も更けて来た。相変わらず彼の原稿は変わる様子が無い。恐らく今夜中に彼の新しい原稿を読む事は叶わぬ事であろう。そして昭和者は明日郵便局に提出せねば成らぬ書附の事を思い出し、真っ青な顔で万年筆にインキを吸わせ始めた所である。既に偽物か「ほんもの」か判らなく成った私は、積み上げられたり引っ繰り返された字引や文庫の間に、所在なく只眼光鋭く平成最後の秋の夜を睨みつけて居るのである。