演奏が終わって、一斉に拍手が鳴り出した。指揮の子がスタンド・アップの指示を出す。全員が立ち上がったあと、指揮の子が指揮台から降りて、深々とお辞儀をした。…一斉の拍手にふさわしく、見事な演奏だった。そして、松川高校の子たちが、静かに舞台の下手に進んで行く。
 舞台の両手方向から、セッティング係の三商の子たちが出てきて、椅子や譜面台のセッティングを始めた。パーカッションの子は一足先に舞台に出て、三商の子と一緒にセッティングを始めている。指揮台の脇で指示を出しているのは、三商の部長の吉田さんだ。ひょろっとした体格から、口の悪い子は電柱とか、トーテムポールとか言っている。けど、私は知っている。ふと眼鏡を外したところを見たことがある。すごく美人だった。なんかかわいそう、と私は思った。
 四市合同演奏会。この立派なコンサートホールを作った古山市の市長が、ぜひ隣り合っている市の高校生にも、コンサートホールでの演奏を経験してほしいと、8年前に始まったそうだ。うちの市にコンサートホールを作る余裕なんてないよと、市役所で働いている父が話していた。そして、この舞台に立つのはこれが最後。三年生なんてずっと先のことだと思っていたけど、あっという間だったなと、舞台の袖でひとりで考えていた。
 いろいろなことを思い出して、ふいに視界がぼやけた。私はだまって、となりにいた可奈に右手をさしだした。可奈はすべてを察していたのか、自分も右手を差し出して、私の手をしっかりと握ってくれた。
「演奏が終わるまでに崩れたら、絶交、だからね」
 可奈が言った。自身ないなぁと思いながら、うなずくことしかできなかった。
「プログラム番号 5番 御崎高校吹奏楽部 指揮 古川美恵さん」
 アナウンスが入った。ついに、最後の演奏だ。みんな自然と、指揮の古川さんの方を向く。古川さんは声を出さず、口の動きだけで、ふぁいと、と言った。そして、古川さんを先頭に、みんなで舞台へ上がっていった。一斉に拍手が起きた。コンサートホールの舞台で拍手を受ける機会なんて、人生にあるかどうか。そして、たぶんコンサートホールで演奏できる最後の機会だろう。はっきり言って、自信はない。さっき可奈が手を握ってくれていなかったら、たぶん一人だけ泣いていたと思う。…大人にならなければいいのに、ふとそんな考えがよぎった。
 自分の位置について、椅子に座って、譜面を広げる。古川さんはやさしい目で、みんながセッティングを終わるタイミングを待っている。セッティングが終わると、拍手が鳴りやんだ。そして、古川さんがタクトを持つ。私は楽器を構えて、古川さんの方を見つめた。…可奈との約束を守らなくちゃ、そう自分に言い聞かせた。
 古川さんのタクトが動くと同時に、トランペットの松山さんが、見事なソロを吹いた。そして皆いっせいに、松山さんのソロに続いた。楽器の音が、前へ、客席へ、鳥が飛ぶように飛んで行く、コンサートホールでしか味わえない、演奏者の特権だ。楽器の音の波の中で、きっとこれなら大丈夫と、自分に言い聞かせた。
 練習の時とおなじように、古川さんの指揮は的確だった。むだな指示は出さず、必要なところにだけ、まるでスパイスを利かせるように指示を出してゆく。古川さんは、音大への進学が決まっているそうだ。きっと、天性の指揮者なのだろう。私たち御崎高校吹奏楽部は、古川さんの指揮のもと、演奏を進めてゆく。アルトサックスの大森さんが、ソロのために立ち上がる。そして、古川さんの指示でやはり見事なソロを吹いた。そして、そのソロに返事をするように、みんなで音を出す。そしてまた大森さんがソロを吹く。そして、それをまとめあげているのが、指揮の古川さんだ。ずっと演奏していたい、終わらなければいいのに、そう思った時、少しだけ視界がゆがんだ。けど、可奈との約束を思い出して、私はぎゅっと目をつぶったあと、古川さんのタクトに集中した。
 演奏はついにコーダまで進んだ。終わらないで、と思う私の気持ちとは裏腹に、曲の構成は終わりへと進んでいる。ついに、最後のロングトーンまで進んでしまった。
 古川さんのタクトが、ひゅっと終わりを告げる。そして、客席からいっせいに拍手が飛んでくる。浴びるような拍手の中で、古川さんはスタンド・アップの指示を出す。私も可奈も、みんな一斉に立ち上がる。古川さんは指揮台から降りて、深々とお辞儀をした。割れんばかりの拍手は、私から現実感を失わせていた。古川さんが舞台の下手へ歩き出す。私は可奈にそっとつつかれるまで、舞台から降りることを忘れていた。
 舞台の袖に入ったとたん、私は歩けなくなった。頬を熱いものが流れているのを、何もできずに感じていた。ふっと古川さんが肩を抱いてくれて、私を舞台の袖の広いところへ連れて行ってくれた。可奈がハンカチを手の中に入れてくれた。…終わってしまった。そう思うまでにどれくらい時間がかかったかわからない。
 松山さんが見かねて、楽器を持ってくれた。気づいたら可奈が目の前に立っていて、もういいよ、と言ってくれた。私は可奈の胸の中で、声を出さずに泣いた。可奈はそっと、背中を抱いてくれていた。ずっと抱いていてくれた。そして、ほんの少し涙がおさまった時、可奈は私の腕を抱いて、楽屋まで連れて行ってくれた。