「お客さん、わりぃけどしっかりつかまっててくれる?こっから先、胸突き八丁キツいんだわ」
 私は、窓の上の握り手を両手で持った。運転手は、さらに鋭い目つきで道を見つめている。そしてこの運転手の一言で、わたしは三峠は近いことを確信した。運転手はレバーを操作し、ハンドルを操作し、忙しく車を進めて行く。カーブの具合によっては、運転手の額に汗が見える。車はうなりを上げながら斜面を登っていく。あたりはより一層木々が茂り、この先に何かあるのかすら疑わしい景色になって居る。私の記憶が確かであれば、この急斜面を登り切れば、一瞬あたりが開けるはずだ。運転手に先の様子を聞こうと思ったが、運転手は運転に忙しく、声をかけるのもためらわれる。私は運転手を信じることにした。元より、タクシーを運転するのは運転手にしか出来ぬ。私は全てを運転手に任せる事にした。
 登り坂が終わったと同時に、ほんの僅かであるが、辺りが開けた。そして、汽車の線路が見えた。汽車の線路に沿って、朽ち果てそうなホームが見える。…間違いない、三峠だ。私は確信した。
「お客さん、…三峠だよ、ここ。言ったとおり、なーんもないよ?…乗り掛かった舟だから、待ってっから、そこら見てきて、戻ってくれば町へ帰るよ?俺も帰んなきゃいけないし」
「いや、これでいいんだ。私はここに来るためにお願いしたんだ。ありがとう。…渡した分で足りるかな?」
「いやー、これ多少返そうか?悪いよ、俺ぁ車転がしてきただけだもん。流石に仕事だから、全部返すって訳にはいかないけどさぁ」
「いや、戻り車は空だろう。その方が申し訳ない。年寄りのわがままに付き合わせてしまった。礼を言うよ。ありがとう。…さて、ドアを開けてくれるかな?」
 運転手は少し躊躇いながらドアを開けてくれた。ひやっとした空気が流れ込む。風はなく、あたりに音らしきものはない。あるとすれば、車のエンジン音だけだ。私は車から降りた。運転手も車から降りてきた。
「なーにもする場所ないでしょー、ここ。…失礼だけど、何か困りごとでもあったのかい?」
「いや、今日ここに来ることは20年前に決まっていたんだ。…矢張り話すと長いから、あえてこのまま帰ってくれないか?」
「…そこまで言うなら帰るけど、汽車は明日だよ?携帯も繋がらないし。…帰りに駐在さんに話しておこうか?」
「いや、それだけは止めて欲しい。何度も言うようだが、私は三峠へ来るために、あの町へ来たのだから」
「良くわからねぇけど…、そこまで言うなら、戻るから。狸とかにいたずらすると大怪我するから、手は出さねぇ方がいいからなぁ?」
 そう言うと運転手は車に乗り込み、私をじぃっと見つめた後、なにかをあきらめるように車を走らせた。乗ってきた車はどんどん小さくなり、下り坂へ消えて行った。…わたしはふぅっと溜息をついて、少し開けた辺りを見渡した。しんとした空間が、そこには有るだけだった。