目の前には、布団に横たわった和恵がいる。顔には生気が無く、元より白い肌がより一層白く見える。時折苦しそうに身悶える。私は立ち上がり部屋を出て、廊下を歩き、乗車券発売所へ向かう。三峠駅が無人駅になる時に、鉄道会社から乗車券の発売をお願いされた。しかし、元より何もなく、誰も居ない場所だ。乗車券発売所の窓口は閉めたままにしている。閉めた儘でも、鉄道会社は事情を了解しているのか、何も言わず、月に幾らかの手数料を払ってくれる。何種類もの乗車券が並ぶ箱の脇にある電話を取って、消防署へ電話をかけた。
「火事ですか?急病ですか?」
すぐに女性の声が聞こえた。ここや、あの町には似つかわしく無い、上品な声だ。
「病人が苦しんでいるんだ。すぐに来てほしい」
「住所はどちらですか?何か目印はありますか?」
「三峠駅の乗車券発売所だ」
「三峠、ですかぁ?」
女性から上品さが消え、少し面倒そうな様子が伺える。
「三峠だと、そうですねぇ、急いで行っても1時間はかかってしまうのですが。向こうの市にお願いしても、同じ位なんですが?」
「構わない。とにかく来てほしい」
「すぐに向かわせます」
「お願いします」
 そう言うと私は電話を置いた。取って返して和恵の許へ戻った。
「消防にお願いした。すぐ来てくれるそうだ」
「…町から、でしょう?」
 和恵は全てを察した様子で答えた。和恵も私も、ここがどの様な場所かは良く理解している。
「急いで、すぐに来るそうだ」
 また和恵は苦しそうに身悶えた。そして私を見つめて言った。
「お願いが、あるのですが」
「何かな」
「…鍵を、鍵を取ってきてください。鍵棚の、いちばん右上」
 私は部屋を飛び出し、乗車券発売所に戻った。発売所の片隅に、駅を管理するために鉄道会社から預かった鍵が何本もぶら下がっている。一番右上の鍵には、目印なのか、小さな毬の根付がついていた。それを手にすると、和恵の許に走った。
「これかな?」
 和恵は、力を振り絞って頷いた。そして、
「それを、大切に持っていて下さい。…改札の右側の扉」
「何故、私が持つのかな」
「…もう、長くはないでしょう」
「弱気になるもんじゃ無いよ」
「…わかるのです。自分のこと、ですから」
 私は何も答えられなかった。
「…あなたは、これから、不可思議な事に巻き込まれます。全ては私のせいです。お許し下さい」
「許すも何も」
「…私を、見ていますか?」
「もちろん」
「…目を見開いているはずが、この後、あなたは瞼を開けます。しかし、それには20年が必要なのです」
「何を言っているのかな」
「…20年経てばわかります。そう、2018年の明日。あなたは瞼を開けるのです。私が、待っています」
「君はそこにいるじゃないか」
「…約束して、くださいますか。20年後の明日、ここで、瞼を開けて、私を見てくださることを」
「ああ、約束するさ」
 来ない救急車にやきもきしながら、私は上の空で答えた。答えた途端、車が止まる音がした。サイレンの音はしない。…役場の車が近くにいたのだろうか。
「車が来たようだ。一寸見てくる」
「待って」
 和恵が、顔をしかめながら力強く言った。そして、
「鏡台の、ビーズの物入れ。それと鍵を、持って出て下さい」
 鏡台を見ると、和恵がいつも持っているビーズの物入れが見えた。私は立ち上がり、物入れを取り、卓袱台の上に置いた鍵を持った。そして廊下を走り、自分でもわからぬが靴を履いて、外に出た。

 外に出たが、車は無い。和恵の許に戻ろうと振り返ったら、発売所の建物は消えていた。何の跡形もない。まるで、最初から何も無かったかのように。私は狼狽し、辺りを見回したり、空を見たりしたが、何も無かった。
 何が起きたのか分からなかった。ふと手に、鍵とビーズの物入れを手にしている事に気づいた。その途端、サイレンの音が聞こえた。