…私は瞼を開けた。間違いなく、和恵は目の前にいる。手を伸ばしかけたところで、「いけません」と和恵が言った。そして和恵が言った。
「あれから、無事でしたか?」
「食うのに大変だったよ」
 私は笑いながら言った。和恵は真っ直ぐ私を見て言った。
「私が何なのか、もうお分かりになられたでしょう」
「何の事かな。君は私の目の前にいるじゃないか」
「じゃ、どうして今、瞼を開けることが出来たのですか?」
「それは…」私は答えに詰まった。「さっき、君の前で腕を組んで、目を閉じた。疲れたからね」
 私は笑ったつもりでいた。しかし、表情は変えられなかった。そして、
「…君を、愛しているんだ。ずっと、そしてこれからも」
「嬉しいです。けど…」
「けど?」
 和恵は腕を伸ばし、私の手に触れようとしたが、その手は私の手をすり抜けた。その手の向こう側に、畳の目が透けて見える。
「あなたを、騙してしまった」
「私は騙されたなんて思っていないさ」私は言った。「君と出会えた事が、私にとって一番幸せな事なんだ」
「私とあなたは、ここ、三峠だから出会えたのです。いや、私が三峠へ連れて来てしまったのです。…あなたと暮らしたいがために」
「なら、一緒に暮らそう」私は言った。「もうこの歳だからね。子供もいない。君が居なければ天涯孤独だ」
「…なりません」和恵はうつむいた。「…この世のものでは、ありませんから。このままでは、あなたを道連れにしてしまいます」
「なら、本望だな。…愛する人との逃避行、ロマンチックな話だ」
「いけません!」
 和恵は力強く答えた。そして、
「世界が、違います。…私の世界に来てしまったら、二度と人間…」
 和恵は、そう言いかけてはっとした。
「…やはり、私はあなたを騙しています」
「愛する人に騙されるくらい、良くある話じゃないか」
「…あなたは、これから幸せになる運命にあるのです」
「君と暮らす以上の幸せを思いつかないな」
「あなたを20年待たせたのは、もしあなたが幸せをつかんだのなら、多分ここには来ないだろうと考えたからです。そして、ここに来たならば、必ずやあなたを幸せにすると」
「つまり、一緒に暮らせる、そういうことだな」
「いいえ」和恵は力強く答えた。「このまま駅へ行って、汽車に乗って頂きます。」
「汽車か」私はほほえんだ。「なら、今夜一晩、君と共に過ごせるのだね」
「ここは…時の流れが違います。だから、あなたと私は話すことが出来るのです」
「わからないね」わたしは腕組みをした。「何も変わらない。今までと」
「時計を、見てください」
 和恵は、私の左手をじぃっと見つめた。私は、腕時計をしていることを思い出した。そして、袖をめくった。
「…なんてことだ…」
 三峠へ着いたのは午後5時過ぎのはずだ。時計は4時30分を示している。…12時間もここにいたはずはない。
「このまま駅へ向かえば、今日の汽車が来ます。その汽車で、満ケ峠(みつがとうげ)へ行ってください」
「君はどうするのだね」
「…私の世界へ、帰ります」
「一緒に満ケ峠へは行けないのかい?」私は尋ねた。
「…私が一緒では、いずれ、あなたを私の世界へ引き込んでしまいます。やはり、なりません」
 和恵は、私の方へ向き直った。そして、
「お別れを言えて、私は幸せです」
「…どうやら、私も別れを告げなければならない運命の様だな」
 和恵はこくん、とうなずいた。
「…君が違う世界から来たのなら、ひとつだけ願いを叶えて欲しい」
 和恵はきょとんとして私を見つめた。
「何…でしょう」
「君の手を、握りたい」
 和恵は懸命に考え込んでいた。そして、
「瞼を、閉じてください」
 私は言われるがままに瞼を閉じた。冷たいが、しなやかな手が私の右手に触れた。私は力強く、その手を握った。
「そのまま、汽車の音がするまで、瞼を閉じていてください」
「わかった」
 私は答えた。それ以上の言葉が出なかった。和恵は手を振りほどいて、こう言った。
「幸せでした。さようなら」
「私もだよ。願いを叶えてくれて、ありがとう」