マイクロバスは、大きな車寄せのあるホテルに着いた。私はやはり自分で鞄とステッキを持って降りた。ホテルに入った私は軽い眩暈を感じた。大きな吹き抜けに大きなシャンデリア、広いロビーに点々と浴衣姿の宿泊客、そしてロビーの片隅にある喫茶スペースと、まるで昭和の温泉ホテルを博物館で保存しているようなホテルだった。もしここに森繁久彌率いる社長と部下がいたら、そのまま昭和のあの映画になってしまいそうなホテルだった。
 とりあえず私はフロントに行き、観光案内所で紹介された旨を話した。禿げ上がった壮年の支配人は、平身低頭という言葉がふさわしいほどに頭を下げた。いわく、部屋は用意できるのだが、予約の都合で午後3時に部屋を変わって欲しいと言う。元より私は部屋に特に希望もなかったので、それで構わない、と言った。支配人は、夜の部屋は特に広くて景色の良い部屋を用意したと言う。正直どこでも構わなかったのだが、それは有難い、と私は言った。突然支配人は小声になり、何かご事情が、と言った。何の事か分からなかったので、何か事情が無いと泊まれないかと尋ねた。やはり支配人は平身低頭となり、男性の一人客は、『万が一』の事がありますので、と言った。これは後で分かったのだが、支配人は私が自殺をしに来たのではないかと疑っていたのだ。
 時間が時間なので仲居がつけられないと言われたが、それで構わないと言った。満員の汽車で疲れた身体を休める所があればよかった。支配人は部屋のキーを手渡してくれ、エレベーターを案内してくれた。エレベーターすら博物館級の古さで、止まる時はかなりの衝撃を伴った。壁の案内を見ながら部屋についてみると、部屋は山に面しているものの、古いが清潔で、熱い湯が入ったポットもきちんと置いてあった。私は自分でお茶を淹れ、広縁に置いてある一人がけのソファーで休むことにした。
 ソファーに座りながら私は、和恵と旅行をしたことが無いという事に気づいた。何回か誘う機会はあったのだが、決まって乗車券発売所のことがあるからと断られた。乗車券が売れるのは多くて週に1回、しかも車で訪れる鉄道好きの客が買っていくだけだった。特に数日閉めても、鉄道会社に連絡しておけば問題なかろうと言ったのだが、頑なに和恵は旅行をすることを拒んだ。…今思えば和恵は、三峠にいるからこそ和恵であったのかも知れない。