Mix Cafe「星空の涙」

カテゴリ: ニセシリーズ

 僕は鉛筆削りを持ち、HBの鉛筆を5本、きちんと削った。鉛筆削りを本棚にしまい、鉛筆を5本、きちんと揃えて、原稿用紙の脇に置いた。僕が文章を書く時の、「儀式」のようなものだ。「儀式」をおろそかにすると、何かとんでもないこと、例えば突然竜が僕の部屋に現れて、大暴れをするんじゃないか、そんなことを僕は考えてしまう。
 「儀式」を終えてふと、「彼」のことを思い出した。「彼」は僕以上に、「儀式」を重んじるタイプだ。「彼」は決して、アド・リブで文章を書いたりしない。「彼」が文章を書くときは決まって、「彼」の文章が走り出して、「彼」の道を安全に走り、文章をきちんと車庫に入れて、トランクから銀色のカバーを出し、文章にかけ終わるまでのイメージが出来上がらない限り、文章を書かない。例え編集者が何台ものバイク便を「彼」のもとに走らせても、「彼」は絶対に自分のやり方を曲げることはしない。おかげで僕は「彼」が書くはずだった何本かの仕事を、「彼」の代わりに書いて、収入にしたことがある。…少し後ろめたい気分になるが、「時間」は「彼」のまわりでも、僕のまわりでも、同じ早さで流れている。仕事で文章を書くには、どうしても「時間」に振り回されることがある。そして僕は、「時間」より早く文章を書くことだけは、「彼」より上手かった。
 僕は窓際へ向かい、厚いカーテンをしっかりと閉めた。そして机に戻り、時計を見た。午前2時を少し回ったところを確かめ、時計から電池を抜いた。「こと、こと」という音が部屋から消えた。…残された「時間」は3時間。時計の音すら僕を邪魔しないでほしい。僕はすぅっと深呼吸をして、一番左の鉛筆を右手に持った。僕は軽く目を閉じ、書く文章のイメージを確かめた。僕は頭の中で、右から、左から、そして正面から、文章のイメージを確かめた。よし、と僕は声を出さずに口にした。そして僕は目を開いて、イメージを文字にすることだけに集中した。かり、かりという鉛筆が原稿用紙の上を走る音だけが、僕の部屋に響いた。僕は頭の中でイメージを逃がさないようにしっかりと見つめ、少しの狂いもなく文字にすることだけに集中した。
 「かたん」と僕は鉛筆を置いた。そして原稿用紙をとん、とんと整えて、電話に向かった。そしていつものように、エージェントへ電話をかけた。エージェントは電話に出るなり、「4時23分」と言った。そして、「君らしい時間だね。オーケー、あと15分でバイク便が行くから、そいつに渡してくれ」とエージェントは言い、一方的に電話を切った。僕は窓のカーテンを開けた。僕にとって騒々しい東京の夜が、僕の部屋に帰ってきた。僕は机から時計を持ってきて、電話で時報を聞きながら時計を合わせた。4時25分、僕の部屋は「儀式」をする前と同じ、騒々しい東京の夜の部屋に戻った。僕は戸棚からウィスキーの瓶を取り出し、いつもと同じように、2口、瓶のままウィスキーを飲んだ。そしてふぅっと息を吐き、仕事が終わったことを確かめ、そっと目を閉じた。…すべてが「儀式」のように、仕事が終わった。僕はとんっ、と、頭の中に残っていた文章のイメージを、部屋の空気の中に解き放った。

 他人の原稿は五分に一遍覗きに来る癖に、自分の原稿は放ったらかしの友人が居る。先程も何か変わった事は無いかと覗きに行ったが、原稿用紙には週末に書かれた大陸語の話が其の儘に成って居た。本来の私は独逸語の教師の筈だが、偽物の私は覚束ない大陸語にひいひい云っている有様である。此の間などは其の友人に騙されて辞書まで買わされた。尤もその辞書のお陰で、此の様に偽物の「捏ち上げ」に磨きが掛って居るのだから、本来は感謝すべきなのかも知れない。けれども、彼の處の昨日と寸分と変わらぬ原稿用紙を見るに附、何とか成らぬかと云いたくなって仕方が無い。
 彼は明治、大正の文学を好むと云う。私は歴とした明治弐拾弐年生である。あるが、残念乍ら私は昭和者が造る「捏ち上げ」である。何処迄「ほんもの」に化ける事が出来るかと、昭和者は文庫や字引を引っ繰り返しては、押したり引っ張ったりして喜んでいる有様である。「ほんもの」としては堪った物では無いが、既に口が利けぬので云われるが儘にしているのである。私は在りし日に撮られた、駅長の制服を着て「はと」の展望車に乗り、眼光鋭く収まった写真が在る。今の私に出来るのは、その写真を通して昭和者を睨み付ける事だけである。
 其れにしても彼は原稿を書く様子が無い。此方から彼の様子を伺う術は無いが、辛うじて見える原稿用紙は土曜の夜更けに書かれた儘である。彼は熱心な研究家で或るから、若しかすると彼は研究の真最中なのかも知れない。そして昭和者は此処にうっかり村上春樹が混ざりそうになり、真っ青な顔で頭の中の筋書きを書き直して居るのである。私一人を真似るだけでも戦後教育の昭和者には大変な作業の筈なのに、何故そんな器用な事が出来るのか。そんな器用な事が出来るので有れば、何か金になる仕事でも手に付ければ良いものを、と「ほんもの」の私は考えるのである。
 大分夜も更けて来た。相変わらず彼の原稿は変わる様子が無い。恐らく今夜中に彼の新しい原稿を読む事は叶わぬ事であろう。そして昭和者は明日郵便局に提出せねば成らぬ書附の事を思い出し、真っ青な顔で万年筆にインキを吸わせ始めた所である。既に偽物か「ほんもの」か判らなく成った私は、積み上げられたり引っ繰り返された字引や文庫の間に、所在なく只眼光鋭く平成最後の秋の夜を睨みつけて居るのである。

 「書け」と云う。引き受けたのはこちらなので、こちらの都合なのだが、相手にも都合がある。原稿を渡すと云ったのは一昨日の話なので、列車で例えるなら可成りの遅れである。然しながら、あっちを押しても、こっちを押しても、思い浮かばないのである。傍らには出版社からの遣いが待っている。最初は正座していていたが、余りにこちらがのんびりしているので、すっかり崩れてしまい、私が積んでおいた本を勝手に捲っている。其れ位は目鯨を立てずに居ないと、何を云われるか分からない。何も書いていない原稿用紙を前に、うーん、うーん、と、唸っているのである。
 少しは文章らしいものが浮かんだので、数行書いたが、どうにもこうにも、据わりが悪い。書いたはいいが、まるで馬車が何台も通り過ぎたような散らかった文章で、とても人様にお渡し出来る物ではない。原稿用紙は丸めて、屑箱へ放り込んでしまった。
 また真っ白い原稿用紙の前で、欠伸をしてみたり、伸びをしてみたりしているが、浮かばないものは浮かばない。出版社君を帰してしまいたいが、彼は彼で都合があるだろう。手ぶらで会社へ帰ると云うことは、彼にとっては仕事を放棄したことになる。矢張り原稿を受け取るまで、傍らにずっと控えているのだろう。
 字引を引くふりをして、時刻表を開いてみた。東海道本線を開いたので、きらびやかな特急列車やら、地味な普通列車やらが、まるで見本市のように並んでいる。今直ぐにでも乗りに行きたい気もするが、最大の問題は目の前の原稿用紙である。真っ白い儘では、何も出来ない。自分から鳥籠の中に這入ったような感じだ。
 細君が、夕食はどうする、と云う。うまい具合に都合をつけろ、と云った所、ぷいと障子を閉めて行ってしまった。細君には細君の都合があるのだろう。
 やっと万年筆を持ち、のろ、のろ、と、文章らしき物を捏ち上げ始めた。出版社の遣いに渡してしまえば、内容はどうであれ、先づは原稿を持って出版社へ帰るだろう。田舎の鈍行列車のような速度で、のた、のた、と、捏ち上げた文章は続く。捏ち上げないと、私は鳥籠から出ることが出来ない。自分から這入った鳥籠から出られないというのは、理不尽でもあり、当然でもある。
 やっと捏ち上げが終わった。もう読み返す気も起きず、出版社君に渡してしまった。出版社君は原稿を一瞥し、先生有難う御座いましたと礼を云い、帰って行った。そういえば夕食を食べていない。細君を呼ぼうかと思ったが、ぷいと行ってしまったのだから、私から頼み事はし辛い。私は其の儘畳へ寝っ転がって、つまんないの、と呟いた。

 音もなく開いた部屋からは、黴や、以前住んでいた人の臭い、放置された家特有の澱んだ空気が流れてきた。とにかく散らかっている。ひどく散らかっている。足元に気をつけながら、「あるところ」へ向かう。
 「あるところ」には、今回の仕事で使えそうな「物」がある。ものすごい埃と黴だ。以前住んでいた「僕」の「昔の姿」でもある。ジョン・バーリコーンが言う。「俺に呑まれていた昔はどうだい」と。やれやれ、君とは長い付き合いだったよ。切っても切れないね。でも、君とはさよならをだいぶ昔に言ったはずだ。「君」がささやいたその声は、時間のゆがみから来ているのだろう。ここまで「放置」していた所だ。ちょっと「時間」がおかしくなっても、少しも不思議とは思えない。むしろゆがんだ時間こそ、この場所に似合う。
 さて、早くここを去りたい。…ひどい姿だ。「昔の仕事」とはいえ、君はこんな姿だったのかい?いや、君の姿は過去の僕そのものだ。僕は「過去」を「封印」ではなく、「断ち切る」必要がある。乱暴に、でも丁寧に、仕事に使う道具を取り出す。使えるものなのかどうか、僕にもわからない。今の僕にできることは、とにかくこの部屋から必要な物を取り出し、部屋の扉を閉め、錠をかけて、なにかを「断ち切る」ことだ。
 必要なものはあった。一つだけ計算が狂った。「あるもの」が壊れている。いや、過去を断ち切るためには、それを新たに用意するのも悪くない。こん、こん、と咳が出た。これ以上この部屋にとどまっていることは無理なようだ。物を掴んで、抱いて、部屋の扉を閉めた。すぅっと「何か」が消えた。そして、「現在」が戻ってきた。一体君は、なにをしてきたんだ?と、「過去の僕」に問いかける。
 がちゃんと音を立てて錠がかかった。短い過去への旅だった。できれば、こんな旅はしたくない。けれども、この「部屋」を尋ねるたびに「過去」への扉が開く。部屋の扉は「過去への扉」だ。がた、がた、と錠がかかったことを確認して、朝日の中に出る。平和な、何事もない朝だ。自転車に乗った人が、音もなく通り去ってゆく。僕は目を閉じ、首を振った。…大丈夫、これは現実だ。現実の朝に戻っただけだ。僕はこの場所に、過去の僕すべてを置いてゆくことにする。
 朝日の中を、僕は歩いてゆく。スニーカーは音を立てず、僕を一歩一歩「現実」へと運んでゆく。何事もない、平和な朝だ。歩きながら僕は、手にしている「物」を見る。使えるものかどうかは、あとで考えればいい。部屋の扉は、現在へ戻ってゆく僕を見送っている。僕は決してその方向を見ないようにする。犬を連れた上品な婦人とすれ違う。僕はまっすぐ、自分の住む場所へ、「現在」へ歩いてゆく。僕は部屋が見えなくなるまで、目線を上げ続けることを忘れなかった。

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