Mix Cafe「星空の涙」

カテゴリ: 即席少女小説

 チャイムと同時に、私たちは全員気をつけの姿勢を取り、胸ポケットから赤い冊子を出し、右手に持ち、高く掲げた。
「二四八頁を開け!」
 部長が叫んだ。
『吹奏楽部員は、つねに真理を堅持する覚悟をもたねばならない!なぜなら、いかなる真理も、生徒の利益と一致するからである!吹奏楽部員は、つねに誤りを正す覚悟をもたねばならない!なぜなら、いかなる誤りも、生徒の利益と一致しないからである!』
「よし!部活はじめ!」
 部長が叫んだ。これが、我が吹奏楽部の、始まりの儀式。そして同志と精神をひとつにするために欠かせないこと。私は心の底から、入部したことを喜んだ。

「…そうか、楽器未経験か」
 先輩は、私の入部届を見ながら言った。音楽はずっと良くて4、ただあこがれと勢いだけで出した入部届だった。
「そんなにならなくていいって。私たち三年生だって、ほとんど未経験だから。ただ、軽く適正テストはするけどね」
 すると先輩は、そばに置いてあったフルートから、頭の部分だけを抜いた。そしてそれを吹く格好をして、ピーッと高い音と、ぽーっと低い音を出した。そして、あっけにとられている私を向いて、先輩が言った。
「どっちかの音が出れば適正あり。音が出なくとも、トレーニングで出るから。でも、私たちが見極めて、他の楽器の方が向いていたら、そっちに変わってもらうかもしれないけどね」
 そして先輩は手をのばして、私の両ほほをむにむにともみはじめた。
「うーん、案外いけそうだなー。いい筋肉してる」
 そう言うと、先輩はそばにあった鏡を出して、「鏡を見て」と言った。そして、
「手を使わないで、思いっきり唇を横に引っ張って!思いっきり!」
 言われるがままに唇を横に引っ張った。
「唇の開いているところ、閉じられるかな?」
 ほほの筋肉がぴくぴくしそうなのを我慢しながら、言われるがままに唇を閉じた。
「…思ったとおりだなぁ。じゃ、唇の真ん中から息を出せそう?ぷーって」
 ぷー。かろうじて息を出した。真ん中からは出せなくて、両脇から出ているのを感じた。
「よーし、休憩。最初はつらいから、がんばって」
 …首の筋までぴくぴくしてる。本当にだいじょうぶなんだろうか。すると先輩は、鏡を持って私の前にひざをついた。
「じゃ、こんどは息を出す練習。唇の真ん中だけ、唇の真ん中だけから息を出して」
 私は唇をとがらせて息を出した。
「よーし、その調子。さっきを思い出して、唇を横に引いてみて」
 むちゃだよぉ。そう思いながら、唇を引いた。
「美香ぁ、ちょっと鏡持っててくれない?」
 先輩は隣にいた先輩に鏡を持たせると、フルートの頭を持って、私の後ろに座った。
「楽にして。初めてにしてはいいよ。ねぇ美香」
「あんたはアンブシュア作るだけで三週間かかったからねー」
「ね、私からしたら、ものすごくいい筋でしょ?」
「ファーストの地位があぶないかもね」
「私よりうまいんだったら、私はいつでもファーストゆずるって」
 …なんの話かさっぱりわからなかった。
「さ、もう一回。唇を横に引いて、唇の真ん中だけ、真ん中だけから息を出して」
 私は思いっきり息を吸うと、唇に力を入れて、ぷーっと息を出した。先輩が後ろから抱きかかえるように手を出してきた。そしてさっきのフルートの頭を私の唇に当てた。
「意識しないで。唇だけに集中して」
 そして左後ろから先輩は頭を出して、フルートの頭を少しずつ動かした。

「ピーッ!」

 突然だった。私の唇の先で音が鳴った。私はびっくりして息を止めた。
「完全に負けだね。一日目で音が出たよ。しかも高音」
 美香先輩が笑っていた。…今の音は、私が出した音…なの?
「適正あり。おみごとでした!」
 先輩は私の両肩にひじをついて、きょとんとしている私の顔を鏡越しに見ていた。そして、
「今年の一年生のフルートは、あなたで決まり」
 先輩はそう言って、私の頭を力いっぱいなで始めた。
「かわいそうだよー、髪ぐちゃぐちゃじゃん」
 美香先輩が笑っていた。そして先輩は並んで立つと、胸ポケットから赤い冊子を出して、右手に持って高く掲げた。そして気をつけの姿勢で、
「五六頁を開け!」
美香先輩が叫んだ。そして、声をそろえて読み始めた。私も一緒に声を上げた。
われわれ吹奏楽部員は、一貫して自己の政治主張をかくしたことはない!われわれの未来綱領または最高綱領は、学校を社会主義社会および共産主義社会へおしすすめることである!これは、確定的で、いささかも疑いのないことである!われわれの部の名称とわれわれのマルクス主義の世界観は、この未来の、かぎりなく明るく、かぎりなく美しい最高理想を明確に示している!』

「…そうか、楽器未経験か」
 先輩は、私の入部届を見ながら言った。音楽はずっと良くて4、ただあこがれと勢いだけで出した入部届だった。
「そんなにならなくていいって。私たち三年生だって、ほとんど未経験だから。ただ、軽く適正テストはするけどね」
 すると先輩は、そばに置いてあったフルートから、頭の部分だけを抜いた。そしてそれを吹く格好をして、ピーッと高い音と、ぽーっと低い音を出した。そして、あっけにとられている私を向いて、先輩が言った。
「どっちかの音が出れば適正あり。音が出なくとも、トレーニングで出るから。でも、私たちが見極めて、他の楽器の方が向いていたら、そっちに変わってもらうかもしれないけどね」
 そして先輩は手をのばして、私の両ほほをむにむにともみはじめた。
「うーん、案外いけそうだなー。いい筋肉してる」
 そう言うと、先輩はそばにあった鏡を出して、「鏡を見て」と言った。そして、
「手を使わないで、思いっきり唇を横に引っ張って!思いっきり!」
 言われるがままに唇を横に引っ張った。
「唇の開いているところ、閉じられるかな?」
 ほほの筋肉がぴくぴくしそうなのを我慢しながら、言われるがままに唇を閉じた。
「…思ったとおりだなぁ。じゃ、唇の真ん中から息を出せそう?ぷーって」
 ぷー。かろうじて息を出した。真ん中からは出せなくて、両脇から出ているのを感じた。
「よーし、休憩。最初はつらいから、がんばって」
 …首の筋までぴくぴくしてる。本当にだいじょうぶなんだろうか。すると先輩は、鏡を持って私の前にひざをついた。
「じゃ、こんどは息を出す練習。唇の真ん中だけ、唇の真ん中だけから息を出して」
 私は唇をとがらせて息を出した。
「よーし、その調子。さっきを思い出して、唇を横に引いてみて」
 むちゃだよぉ。そう思いながら、唇を引いた。
「美香ぁ、ちょっと鏡持っててくれない?」
 先輩は隣にいた先輩に鏡を持たせると、フルートの頭を持って、私の後ろに座った。
「楽にして。初めてにしてはいいよ。ねぇ美香」
「あんたはアンブシュア作るだけで三週間かかったからねー」
「ね、私からしたら、ものすごくいい筋でしょ?」
「ファーストの地位があぶないかもね」
「私よりうまいんだったら、私はいつでもファーストゆずるって」
 …なんの話かさっぱりわからなかった。
「さ、もう一回。唇を横に引いて、唇の真ん中だけ、真ん中だけから息を出して」
 私は思いっきり息を吸うと、唇に力を入れて、ぷーっと息を出した。先輩が後ろから抱きかかえるように手を出してきた。そしてさっきのフルートの頭を私の唇に当てた。
「意識しないで。唇だけに集中して」
 そして左後ろから先輩は頭を出して、フルートの頭を少しずつ動かした。

「ピーッ!」

 突然だった。私の唇の先で音が鳴った。私はびっくりして息を止めた。
「完全に負けだね。一日目で音が出たよ。しかも高音」
 美香先輩が笑っていた。…今の音は、私が出した音…なの?
「適正あり。おみごとでした!」
 先輩は私の両肩にひじをついて、きょとんとしている私の顔を鏡越しに見ていた。そして、
「今年の一年生のフルートは、あなたで決まり」
 先輩はそう言って、私の頭を力いっぱいなで始めた。
「かわいそうだよー、髪ぐちゃぐちゃじゃん」
 美香先輩が笑っていた。そして先輩は並んで立つと、胸ポケットから赤い冊子を出した。そして気をつけの姿勢で、
「一九一頁を開け!」
 美香先輩が叫んだ。そして、声をそろえて読み始めた。
「われわれの同志は、困難なときには、成果を見、光明を見、勇気をふるいたたせなければならない!」
 …私は何が起きているのか、さっぱりわからなかった。

即席少女小説
「ラスト・ステージ」
作:氷室 朱実

 演奏が終わって、一斉に拍手が鳴り出した。指揮の子がスタンド・アップの指示を出す。全員が立ち上がったあと、指揮の子が指揮台から降りて、深々とお辞儀をした。…一斉の拍手にふさわしく、見事な演奏だった。そして、松川高校の子たちが、静かに舞台の下手に進んで行く。
 舞台の両手方向から、セッティング係の三商の子たちが出てきて、椅子や譜面台のセッティングを始めた。パーカッションの子は一足先に舞台に出て、三商の子と一緒にセッティングを始めている。指揮台の脇で指示を出しているのは、三商の部長の吉田さんだ。ひょろっとした体格から、口の悪い子は電柱とか、トーテムポールとか言っている。けど、私は知っている。ふと眼鏡を外したところを見たことがある。すごく美人だった。なんかかわいそう、と私は思った。
 四市合同演奏会。この立派なコンサートホールを作った古山市の市長が、ぜひ隣り合っている市の高校生にも、コンサートホールでの演奏を経験してほしいと、8年前に始まったそうだ。うちの市にコンサートホールを作る余裕なんてないよと、市役所で働いている父が話していた。そして、この舞台に立つのはこれが最後。三年生なんてずっと先のことだと思っていたけど、あっという間だったなと、舞台の袖でひとりで考えていた。
 いろいろなことを思い出して、ふいに視界がぼやけた。私はだまって、となりにいた可奈に右手をさしだした。可奈はすべてを察していたのか、自分も右手を差し出して、私の手をしっかりと握ってくれた。
「演奏が終わるまでに崩れたら、絶交、だからね」
 可奈が言った。自信ないなぁと思いながら、うなずくことしかできなかった。
「プログラム番号 5番 御崎高校吹奏楽部 指揮 古川美恵さん」
 アナウンスが入った。ついに、最後の演奏だ。みんな自然と、指揮の古川さんの方を向く。古川さんは声を出さず、口の動きだけで、ふぁいと、と言った。そして、古川さんを先頭に、みんなで舞台へ上がっていった。一斉に拍手が起きた。コンサートホールの舞台で拍手を受ける機会なんて、人生にあるかどうか。そして、たぶんコンサートホールで演奏できる最後の機会だろう。はっきり言って、自信はない。さっき可奈が手を握ってくれていなかったら、たぶん一人だけ泣いていたと思う。…大人にならなければいいのに、ふとそんな考えがよぎった。
 自分の位置について、椅子に座って、譜面を広げる。古川さんはやさしい目で、みんながセッティングを終わるタイミングを待っている。セッティングが終わると、拍手が鳴りやんだ。そして、古川さんがタクトを持つ。私は楽器を構えて、古川さんの方を見つめた。…可奈との約束を守らなくちゃ、そう自分に言い聞かせた。
 古川さんのタクトが動くと同時に、トランペットの松山さんが、見事なソロを吹いた。そして皆いっせいに、松山さんのソロに続いた。楽器の音が、前へ、客席へ、鳥が飛ぶように飛んで行く、コンサートホールでしか味わえない、演奏者の特権だ。楽器の音の波の中で、きっとこれなら大丈夫と、自分に言い聞かせた。
 練習の時とおなじように、古川さんの指揮は的確だった。むだな指示は出さず、必要なところにだけ、まるでスパイスを利かせるように指示を出してゆく。古川さんは、音大への進学が決まっているそうだ。きっと、天性の指揮者なのだろう。私たち御崎高校吹奏楽部は、古川さんの指揮のもと、演奏を進めてゆく。アルトサックスの大森さんが、ソロのために立ち上がる。そして、古川さんの指示でやはり見事なソロを吹いた。そして、そのソロに返事をするように、みんなで音を出す。そしてまた大森さんがソロを吹く。そして、それをまとめあげているのが、指揮の古川さんだ。ずっと演奏していたい、終わらなければいいのに、そう思った時、少しだけ視界がゆがんだ。けど、可奈との約束を思い出して、私はぎゅっと目をつぶったあと、古川さんのタクトに集中した。
 演奏はついにコーダまで進んだ。終わらないで、と思う私の気持ちとは裏腹に、曲の構成は終わりへと進んでいる。ついに、最後のロングトーンまで進んでしまった。
 古川さんのタクトが、ひゅっと終わりを告げる。そして、客席からいっせいに拍手が飛んでくる。浴びるような拍手の中で、古川さんはスタンド・アップの指示を出す。私も可奈も、みんな一斉に立ち上がる。古川さんは指揮台から降りて、深々とお辞儀をした。割れんばかりの拍手は、私から現実感を失わせていた。古川さんが舞台の下手へ歩き出す。私は可奈にそっとつつかれるまで、舞台から降りることを忘れていた。
 舞台の袖に入ったとたん、私は歩けなくなった。頬を熱いものが流れているのを、何もできずに感じていた。ふっと古川さんが肩を抱いてくれて、私を舞台の袖の広いところへ連れて行ってくれた。可奈がハンカチを手の中に入れてくれた。…終わってしまった。そう思うまでにどれくらい時間がかかったかわからない。
 松山さんが見かねて、楽器を持ってくれた。気づいたら可奈が目の前に立っていて、もういいよ、と言ってくれた。私は可奈の胸の中で、声を出さずに泣いた。可奈はそっと、背中を抱いてくれていた。ずっと抱いていてくれた。そして、ほんの少し涙がおさまった時、可奈は私の腕を抱いて、楽屋まで連れて行ってくれた。

 楽屋に戻ると、楽屋のソファーに座らされた。
 このコンサートホールは、古山市の威信をかけて作られたそうで、プロのオーケストラの演奏会や、芸能人のコンサートが良く行われている。なので、楽屋も色々な種類があり、準備段階で各校くじびきで楽屋を決めている。指揮の古川さんが挑戦して、見事、一番広くて立派な楽屋を使うことができた。
「お茶、飲む?」
 可奈が自分の水筒のお茶をすすめてくれた。こくんとうなずいて、水筒のふたに入れられたお茶を飲んだ。
「武内先輩、ありがとうございました」
 トランペットの松山さんがやってきて、深々とおじぎをした。彼女は1年生ながら、トランペットの腕にかけては学校、いや、この演奏会で一番の腕前だろう。…さっきの演奏でのソロを思い出した。
「こーら、今日はまだ卒業式じゃないぞ」
 可奈が松山さんの肩を叩いた。
「それに、練習にはまだ混ぜてもらうからね。…受験があるのが残念だけど」
 可奈はそう言うと、私の隣に座った。
「…落ち着いた?」
「…うん…」
 ぽつり、と私は言った。放心状態というのだろうか。さっきまでの悲しさは、心の中で霧のようにぼんやりしていた。
「終わったんだ」
 私はそう言うと、水筒のふたをテーブルに置いた。ほかの子たちはみんな、楽器を片づけたり、おしゃべりをしたりしている。女の子たちのかしましい声が、楽屋に響いている。
「楽器は、鏡台の机に置いておいたからね」
 可奈はそう言うと、私の左手の上に自分の右手を置いた。そして、
「ずっと心配してたんだから。いつ泣き出すか、って」
 私の左手を握りながら、可奈は私の顔をのぞきこんで、にーっ、と笑った。
「最後まで、ちゃーんと演奏した。だから、約束どおり絶交はなし」
 可奈は握っていた私の手を離すと、ぽんぽんと、私の背中を叩いた。

「諸君!すばらしい演奏だった!ブラボーだよ!」
 楽屋の入り口から、顧問の滋田先生の大きな声が聞こえた。入り口を見ると、滋田先生と、今回の演奏に参加できなかった後輩たちが立っていた。後輩たちは先生の脇をすり抜けると、楽屋の真ん中にスーパーの袋を置いた。中には、ジュースやお茶のペットボトルがたくさん入っていた。そして、
「若き演奏家たちへのささやかなプレゼントだ。ひとり一本!」
 滋田先生はそう言って、嬉しそうに笑っていた。近くにいた子たちはみな、歓声を上げてスーパーの袋をあけていた。
「何か持ってくる?何がいい?」
「…まかせる」
 可奈は私の言葉を聞くと、すっと立ち上がって、楽屋の真ん中へ向かっていった。
 私はまだ、何も考えることができなかった。…楽器の手入れをして、ケースにしまわないとと考えたが、どうしても立ち上がることができなかった。
「武内、だいじょうぶか?」
 滋田先生はいつも間にか私の脇にしゃがみこんで、私の顔を心配そうにのぞいていた。そして、
「一番熱心に練習してたからな」
「はい…」
「そのまま、しばらく休んでいなさい。ね?」
 滋田先生はそう言って立ち上がると、他の部員たちへも声をかけて回りはじめた。入れ替わりに、可奈がお茶のペットボトルを2本持ってきて、私の隣に座った。そして、はい、と言って、1本を私の前に置いてくれた。そして、私の右手の中に、濡らしたハンカチを押し込んだ。
「そのままじゃ、楽屋の外に出られないでしょ。…それとも、洗面台へ行く?」
 私は首を振った。そして、濡れたハンカチで顔を拭いた。冷たい濡れたハンカチの感触が、私の心を少しずつ覚ましてくれた。

 ふいに、楽屋の入り口から歓声が上がった。そして、その歓声は、どんどん近づいてくる。
「ひさしぶり!武内、三島!」
『遠藤先輩!!』
 私と可奈は声をそろえて驚いた。遠藤先輩は、去年の3年生、つまり卒業生だ。ベリーショートの髪にすらっと背が高い、ボーイッシュなその姿は、私たち吹奏楽部の、いや、全校生徒のあこがれだった。ファンクラブもあり、バレンタイン・デーにはチョコレートを抱えた遠藤先輩が音楽室に来て、遠藤先輩が受け取ったチョコレートを部員に配ってしまうのが恒例になっていた。遠藤先輩は、私たちの向かいのソファーに、どんっ、と座った。
「でも、どうやって楽屋口からここまで来れたんですか?」
 可奈が不思議そうに聞く。確かに、楽屋口には楽屋担当の他校の生徒が待機していて、関係者以外が入らないようにチェックしているはずだ。遠藤先輩は、どうやってここまで来たんだろう。
 それを聞いた遠藤先輩は、ぺろっと舌を出して、きょろきょろと周りをうかがい、あるものを私たちに見せた。
『生徒証!!』
「しーっ、声が大きい!」
 遠藤先輩はあわてて生徒証をバッグにしまった。そして、
「実は、卒業式の時に返さなかったんだ。忘れました、って言ってね」
 確かに今見せてくれた生徒証はクリーム色で去年のものだ。私と可奈が持っている生徒証は薄緑色だ。…そうか。他校の生徒には生徒証の『色』の違いなんてわからないだろう。驚いた。生徒会長までつとめた遠藤先輩が、そんなことをするなんて。
「今年の楽屋担当がウチの学校じゃなくて良かったよ。おかげで、誰にも疑われずにここまで来れた」
 そして、私の方をじっと見つめて、遠藤先輩が言った。
「武内、泣かなかった?」
「大泣きでしたよ!」
 私のかわりに可奈が答えた。「けど、泣いたのは演奏が終わってから。演奏中はしっかり演奏に集中してましたよ」
「そうなんじゃないかと思ってさ」
 …なんで、遠藤先輩がそんなことを知っているんだろう。
「…実は、あたしも去年、泣いてたんだ。しかも演奏中にね」
 驚いた。去年、演奏が終わったあと楽屋でジョークを飛ばし、後輩たちをからかっていたのは、まぎれもない遠藤先輩だったはずなのに。
「ここのステージってさ、思い出の宝箱みたいなところじゃない?パートごとのテストに合格した部員だけの、思い出の宝箱。…あたし、ここで演奏するのがずっと夢だったんだ」
「私もです」私は、自分のひざを見ながら言った。「中学生の時、学校のみんなと合同演奏会を聞きに来て、絶対にここの舞台で演奏するって決めてたんです」
「もう最後かって思ったら、指揮が見えなくなっちゃってさ。…だから、実は去年の演奏、当てずっぽうだった」
 遠藤先輩は、遠くの壁の方を見ながら言った。そして、
「…きっと、武内もそうなんじゃないか、って思ってさ。誰よりいちばん練習して、誰よりいちばん、自分に厳しい」
「そんな」私は言った。「私はただ…」
「客席から見ればすぐにわかるさ」
 遠藤先輩はまっすぐ私のほうを見て言った。
「ステージに入ってくる武内、元気がなさそうでさ。けど、古川がタクトを持ったとたんに、目つきが変わった。去年のあたしを見ているみたいで、びっくりしたよ」
 そして、遠藤先輩は手を伸ばして、私の手をにぎってくれた。
「もしかしたら、あたしみたいに泣いちゃうかな、と思ったんだけど、最後まで古川のタクトから目をはなさなかった。…だから、心配になってさ」
「遠藤先輩…」
 私は、いっしゅんの内にパート練習や合同練習、そして先輩たちと一緒だったステージを思い出した。どれひとつ忘れられない思い出。ぽつんと涙が、遠藤先輩が握ってくれている手に落ちた。遠藤先輩はそっと立ち上がると私のところに来て、私をぎゅっと抱きしめてくれた。
「涙ってさ、いろいろなものを洗い流してくれるだろう?…いっぱい流して、思い出をきれいな姿に変えちゃいなよ」
 遠藤先輩と言おうとして、もう私は言えなかった。ただ涙があふれてくるだけだった。そんな私を、遠藤先輩はずっと抱きしめてくれていた。
「かわいい後輩にはやさしくしてあげないと、な、三島」
 その声を聞いたとたんに、私は大声をあげて泣き始めた。遠藤先輩はだまって、私を抱きしめてくれていた。

「あっ、流れ星!」
 古川さんが星空を指さして言った。私たちが楽屋口から外に出ると、外はすっかり真っ暗だった。
「最高の演奏だったな」
 滋田先生はスラックスのポケットに手を入れたまま、顔を上げて言った。
「滋田先生、あたしのときの演奏は?」
 遠藤先輩がいたずらっぽく言った。
「ここのステージでの演奏は、みんな最高の演奏なんだよ。な、武内!」
「はい!」
 私は元気いっぱいに答えた。外の空気は新鮮で、胸の奥まできれいになるようだった。
「泣いたカラスがもう笑ってるー」
「可奈!!」
 私はふくれっ面になったあと、ふき出して笑った。みんなもつられて笑った。…「最高の思い出」になったんだと、私は思った。私は可奈の手をにぎった。可奈も私の手をにぎり返してくれた。可奈の手は、やわらかくて暖かかった。

 -終-

 ふいに、楽屋の入り口から歓声が上がった。そして、その歓声は、どんどん近づいてくる。
「ひさしぶり!武内、三島!」
『遠藤先輩!!』
 私と可奈は声をそろえて驚いた。遠藤先輩は、去年の3年生、つまり卒業生だ。ベリーショートの髪にすらっと背が高い、ボーイッシュなその姿は、私たち吹奏楽部の、いや、全校生徒のあこがれだった。ファンクラブもあり、バレンタイン・デーにはチョコレートを抱えた遠藤先輩が音楽室に来て、遠藤先輩が受け取ったチョコレートを部員に配ってしまうのが恒例になっていた。遠藤先輩は、私たちの向かいのソファーに、どんっ、と座った。
「でも、どうやって楽屋口からここまで来れたんですか?」
 可奈が不思議そうに聞く。確かに、楽屋口には楽屋担当の他校の生徒が待機していて、関係者以外が入らないようにチェックしているはずだ。遠藤先輩は、どうやってここまで来たんだろう。
 それを聞いた遠藤先輩は、ぺろっと舌を出して、きょろきょろと周りをうかがい、あるものを私たちに見せた。
『生徒証!!』
「しーっ、声が大きい!」
 遠藤先輩はあわてて生徒証をバッグにしまった。そして、
「実は、卒業式の時に返さなかったんだ。忘れました、って言ってね」
 確かに今見せてくれた生徒証はクリーム色で去年のものだ。私と可奈が持っている生徒証は薄緑色だ。…そうか。他校の生徒には生徒証の『色』の違いなんてわからないだろう。驚いた。生徒会長までつとめた遠藤先輩が、そんなことをするなんて。
「今年の楽屋担当がウチの学校じゃなくて良かったよ。おかげで、誰にも疑われずにここまで来れた」
 そして、私の方をじっと見つめて、遠藤先輩が言った。
「武内、泣かなかった?」
「大泣きでしたよ!」
 私のかわりに可奈が答えた。「けど、泣いたのは演奏が終わってから。演奏中はしっかり演奏に集中してましたよ」
「そうなんじゃないかと思ってさ」
 …なんで、遠藤先輩がそんなことを知っているんだろう。
「…実は、あたしも去年、泣いてたんだ。しかも演奏中にね」
 驚いた。去年、演奏が終わったあと楽屋でジョークを飛ばし、後輩たちをからかっていたのは、まぎれもない遠藤先輩だったはずなのに。
「ここのステージってさ、思い出の宝箱みたいなところじゃない?パートごとのテストに合格した部員だけの、思い出の宝箱。…あたし、ここで演奏するのがずっと夢だったんだ」
「私もです」私は、自分のひざを見ながら言った。「中学生の時、学校のみんなと合同演奏会を聞きに来て、絶対にここの舞台で演奏するって決めてたんです」
「もう最後かって思ったら、指揮が見えなくなっちゃってさ。…だから、実は去年の演奏、当てずっぽうだった」
 遠藤先輩は、遠くの壁の方を見ながら言った。そして、
「…きっと、武内もそうなんじゃないか、って思ってさ。誰よりいちばん練習して、誰よりいちばん、自分に厳しい」
「そんな」私は言った。「私はただ…」
「客席から見ればすぐにわかるさ」
 遠藤先輩はまっすぐ私のほうを見て言った。
「ステージに入ってくる武内、元気がなさそうでさ。けど、古川がタクトを持ったとたんに、目つきが変わった。去年のあたしを見ているみたいで、びっくりしたよ」
 そして、遠藤先輩は手を伸ばして、私の手をにぎってくれた。
「もしかしたら、あたしみたいに泣いちゃうかな、と思ったんだけど、最後まで古川のタクトから目をはなさなかった。…だから、心配になってさ」
「遠藤先輩…」
 私は、いっしゅんの内にパート練習や合同練習、そして先輩たちと一緒だったステージを思い出した。どれひとつ忘れられない思い出。ぽつんと涙が、遠藤先輩が握ってくれている手に落ちた。遠藤先輩はそっと立ち上がると私のところに来て、私をぎゅっと抱きしめてくれた。
「涙ってさ、いろいろなものを洗い流してくれるだろう?…いっぱい流して、思い出をきれいな姿に変えちゃいなよ」
 遠藤先輩と言おうとして、もう私は言えなかった。ただ涙があふれてくるだけだった。そんな私を、遠藤先輩はずっと抱きしめてくれていた。
「かわいい後輩にはやさしくしてあげないと、な、三島」
 その声を聞いたとたんに、私は大声をあげて泣き始めた。遠藤先輩はだまって、私を抱きしめてくれていた。

「あっ、流れ星!」
 古川さんが星空を指さして言った。私たちが楽屋口から外に出ると、外はすっかり真っ暗だった。
「最高の演奏だったな」
 滋田先生はスラックスのポケットに手を入れたまま、顔を上げて言った。
「滋田先生、あたしのときの演奏は?」
 遠藤先輩がいたずらっぽく言った。
「ここのステージでの演奏は、みんな最高の演奏なんだよ。な、武内!」
「はい!」
 私は元気いっぱいに答えた。外の空気は新鮮で、胸の奥まできれいになるようだった。
「泣いたカラスがもう笑ってるー」
「可奈!!」
 私はふくれっ面になったあと、ふき出して笑った。みんなもつられて笑った。…「最高の思い出」になったんだと、私は思った。私は可奈の手をにぎった。可奈も私の手をにぎり返してくれた。可奈の手は、やわらかくて暖かかった。

 -終-

 楽屋に戻ると、楽屋のソファーに座らされた。
 このコンサートホールは、古山市の威信をかけて作られたそうで、プロのオーケストラの演奏会や、芸能人のコンサートが良く行われている。なので、楽屋も色々な種類があり、準備段階で各校くじびきで楽屋を決めている。指揮の古川さんが挑戦して、見事、一番広くて立派な楽屋を使うことができた。
「お茶、飲む?」
 可奈が自分の水筒のお茶をすすめてくれた。こくんとうなずいて、水筒のふたに入れられたお茶を飲んだ。
「武内先輩、ありがとうございました」
 トランペットの松山さんがやってきて、深々とおじぎをした。彼女は1年生ながら、トランペットの腕にかけては学校、いや、この演奏会で一番の腕前だろう。…さっきの演奏でのソロを思い出した。
「こーら、今日はまだ卒業式じゃないぞ」
 可奈が松山さんの肩を叩いた。
「それに、練習にはまだ混ぜてもらうからね。…受験があるのが残念だけど」
 可奈はそう言うと、私の隣に座った。
「…落ち着いた?」
「…うん…」
 ぽつり、と私は言った。放心状態というのだろうか。さっきまでの悲しさは、心の中で霧のようにぼんやりしていた。
「終わったんだ」
 私はそう言うと、水筒のふたをテーブルに置いた。ほかの子たちはみんな、楽器を片づけたり、おしゃべりをしたりしている。女の子たちのかしましい声が、楽屋に響いている。
「楽器は、鏡台の机に置いておいたからね」
 可奈はそう言うと、私の左手の上に自分の右手を置いた。そして、
「ずっと心配してたんだから。いつ泣き出すか、って」
 私の左手を握りながら、可奈は私の顔をのぞきこんで、にーっ、と笑った。
「最後まで、ちゃーんと演奏した。だから、約束どおり絶交はなし」
 可奈は握っていた私の手を離すと、ぽんぽんと、私の背中を叩いた。

「諸君!すばらしい演奏だった!ブラボーだよ!」
 楽屋の入り口から、顧問の滋田先生の大きな声が聞こえた。入り口を見ると、滋田先生と、今回の演奏に参加できなかった後輩たちが立っていた。後輩たちは先生の脇をすり抜けると、楽屋の真ん中にスーパーの袋を置いた。中には、ジュースやお茶のペットボトルがたくさん入っていた。そして、
「若き演奏家たちへのささやかなプレゼントだ。ひとり一本!」
 滋田先生はそう言って、嬉しそうに笑っていた。近くにいた子たちはみな、歓声を上げてスーパーの袋をあけていた。
「何か持ってくる?何がいい?」
「…まかせる」
 可奈は私の言葉を聞くと、すっと立ち上がって、楽屋の真ん中へ向かっていった。
 私はまだ、何も考えることができなかった。…楽器の手入れをして、ケースにしまわないとと考えたが、どうしても立ち上がることができなかった。
「武内、だいじょうぶか?」
 滋田先生はいつも間にか私の脇にしゃがみこんで、私の顔を心配そうにのぞいていた。そして、
「一番熱心に練習してたからな」
「はい…」
「そのまま、しばらく休んでいなさい。ね?」
 滋田先生はそう言って立ち上がると、他の部員たちへも声をかけて回りはじめた。入れ替わりに、可奈がお茶のペットボトルを2本持ってきて、私の隣に座った。そして、はい、と言って、1本を私の前に置いてくれた。そして、私の右手の中に、濡らしたハンカチを押し込んだ。
「そのままじゃ、楽屋の外に出られないでしょ。…それとも、洗面台へ行く?」
 私は首を振った。そして、濡れたハンカチで顔を拭いた。冷たい濡れたハンカチの感触が、私の心を少しずつ覚ましてくれた。

…ネタ切れにつきつづく…

 演奏が終わって、一斉に拍手が鳴り出した。指揮の子がスタンド・アップの指示を出す。全員が立ち上がったあと、指揮の子が指揮台から降りて、深々とお辞儀をした。…一斉の拍手にふさわしく、見事な演奏だった。そして、松川高校の子たちが、静かに舞台の下手に進んで行く。
 舞台の両手方向から、セッティング係の三商の子たちが出てきて、椅子や譜面台のセッティングを始めた。パーカッションの子は一足先に舞台に出て、三商の子と一緒にセッティングを始めている。指揮台の脇で指示を出しているのは、三商の部長の吉田さんだ。ひょろっとした体格から、口の悪い子は電柱とか、トーテムポールとか言っている。けど、私は知っている。ふと眼鏡を外したところを見たことがある。すごく美人だった。なんかかわいそう、と私は思った。
 四市合同演奏会。この立派なコンサートホールを作った古山市の市長が、ぜひ隣り合っている市の高校生にも、コンサートホールでの演奏を経験してほしいと、8年前に始まったそうだ。うちの市にコンサートホールを作る余裕なんてないよと、市役所で働いている父が話していた。そして、この舞台に立つのはこれが最後。三年生なんてずっと先のことだと思っていたけど、あっという間だったなと、舞台の袖でひとりで考えていた。
 いろいろなことを思い出して、ふいに視界がぼやけた。私はだまって、となりにいた可奈に右手をさしだした。可奈はすべてを察していたのか、自分も右手を差し出して、私の手をしっかりと握ってくれた。
「演奏が終わるまでに崩れたら、絶交、だからね」
 可奈が言った。自身ないなぁと思いながら、うなずくことしかできなかった。
「プログラム番号 5番 御崎高校吹奏楽部 指揮 古川美恵さん」
 アナウンスが入った。ついに、最後の演奏だ。みんな自然と、指揮の古川さんの方を向く。古川さんは声を出さず、口の動きだけで、ふぁいと、と言った。そして、古川さんを先頭に、みんなで舞台へ上がっていった。一斉に拍手が起きた。コンサートホールの舞台で拍手を受ける機会なんて、人生にあるかどうか。そして、たぶんコンサートホールで演奏できる最後の機会だろう。はっきり言って、自信はない。さっき可奈が手を握ってくれていなかったら、たぶん一人だけ泣いていたと思う。…大人にならなければいいのに、ふとそんな考えがよぎった。
 自分の位置について、椅子に座って、譜面を広げる。古川さんはやさしい目で、みんながセッティングを終わるタイミングを待っている。セッティングが終わると、拍手が鳴りやんだ。そして、古川さんがタクトを持つ。私は楽器を構えて、古川さんの方を見つめた。…可奈との約束を守らなくちゃ、そう自分に言い聞かせた。
 古川さんのタクトが動くと同時に、トランペットの松山さんが、見事なソロを吹いた。そして皆いっせいに、松山さんのソロに続いた。楽器の音が、前へ、客席へ、鳥が飛ぶように飛んで行く、コンサートホールでしか味わえない、演奏者の特権だ。楽器の音の波の中で、きっとこれなら大丈夫と、自分に言い聞かせた。
 練習の時とおなじように、古川さんの指揮は的確だった。むだな指示は出さず、必要なところにだけ、まるでスパイスを利かせるように指示を出してゆく。古川さんは、音大への進学が決まっているそうだ。きっと、天性の指揮者なのだろう。私たち御崎高校吹奏楽部は、古川さんの指揮のもと、演奏を進めてゆく。アルトサックスの大森さんが、ソロのために立ち上がる。そして、古川さんの指示でやはり見事なソロを吹いた。そして、そのソロに返事をするように、みんなで音を出す。そしてまた大森さんがソロを吹く。そして、それをまとめあげているのが、指揮の古川さんだ。ずっと演奏していたい、終わらなければいいのに、そう思った時、少しだけ視界がゆがんだ。けど、可奈との約束を思い出して、私はぎゅっと目をつぶったあと、古川さんのタクトに集中した。
 演奏はついにコーダまで進んだ。終わらないで、と思う私の気持ちとは裏腹に、曲の構成は終わりへと進んでいる。ついに、最後のロングトーンまで進んでしまった。
 古川さんのタクトが、ひゅっと終わりを告げる。そして、客席からいっせいに拍手が飛んでくる。浴びるような拍手の中で、古川さんはスタンド・アップの指示を出す。私も可奈も、みんな一斉に立ち上がる。古川さんは指揮台から降りて、深々とお辞儀をした。割れんばかりの拍手は、私から現実感を失わせていた。古川さんが舞台の下手へ歩き出す。私は可奈にそっとつつかれるまで、舞台から降りることを忘れていた。
 舞台の袖に入ったとたん、私は歩けなくなった。頬を熱いものが流れているのを、何もできずに感じていた。ふっと古川さんが肩を抱いてくれて、私を舞台の袖の広いところへ連れて行ってくれた。可奈がハンカチを手の中に入れてくれた。…終わってしまった。そう思うまでにどれくらい時間がかかったかわからない。
 松山さんが見かねて、楽器を持ってくれた。気づいたら可奈が目の前に立っていて、もういいよ、と言ってくれた。私は可奈の胸の中で、声を出さずに泣いた。可奈はそっと、背中を抱いてくれていた。ずっと抱いていてくれた。そして、ほんの少し涙がおさまった時、可奈は私の腕を抱いて、楽屋まで連れて行ってくれた。

「氷室先輩!楽器吹いてください!!」
 …私はピアノを弾いていた手を止めて、アップライトピアノの上から、組み立ててあったフルートを手に取った。もちろん、チューニングも済ませてある。とは言っても、チューニングからだいぶ時間が経っていて、すっかり楽器は冷えてしまっているが。
 最高学年の三年生といっても、二年生には頭が上がらない。私たち三年生が一年前、二年生になった時は、部員はたったの5名。学校の「お情け」と、私たち吹奏楽部の練習が終わった後、ピアノの練習に来る教頭先生の「陰の力」で、かろうじて残っていた部活だ。そこに集まってくれた今の二年生たちは、部の救世主と言える。彼女たちがいなかったら、私たち吹奏楽部は、「廃部」の二文字の中に消えて行っていただろう。
 私はフルートから左手を離し、ピアノ用の楽譜ファイルを閉じ、フルート用の楽譜ファイルを開いた。そして右足でピアノのペダルを踏み、左手を伸ばしてBフラットの音を出した。そして音が伸びている間にフルートを構え、Bフラットの音を出してもう一度チューニングをした。フルートはすっかり冷えていて、出た音は少し高かった。私はジョイントをほんの少し伸ばして、もう一度ピアノでBフラットの音を出し、フルートから練習できるだけの音が出ていることを確かめた。そして、フルート用の楽譜ファイルとフルートを持ち、アップライトピアノから離れて、彼女たち二年生の集まっている音楽室の真ん中へ出て行った。
「先輩!三年生はもうすぐ引退なんですよ!演奏できる機会だって…」
「わかったわかった、わかってるって。演劇部の伴奏が最後だって言いたいいんでしょう?」
 私は後輩が用意してくれた譜面台に譜面を広げ、椅子に浅く腰かけた。そして声の主のほうを向いて、眼鏡の奥の瞳を見つめた。…三芳友子、現吹奏楽部、部長だ。彼女はまだ何か言いたそうだったが、音楽準備室の方へ向いて声を上げた。
「先生!袴田先生!揃いました!指揮お願いします!」
 音楽準備室の扉が開いて、袴田先生が出てきた。そして…大あくび。どうやら「いつもどおり」、お休みになられていたらしい。指揮台の前に立って、タクトを手にしてふと私の方を見た。
「氷室じゃん。いたんだ、めずらしい」
「先生!氷室先輩、ずーっとピアノ弾いてましたよ!」
「…うーん、確かに気持ち良かったかも」
 袴田先生は寝ていたことを悪びれることもなく、さらっと言った。そして正面を向いた。
「じゃ最初の曲、頭から。ティンパニのロールから入るから、しっかり指揮を見て」
 袴田先生がタクトを振る。ティンパニがどろろろろろ…と音を立てる。私はフルートを構えて、タクトの動きに集中する。そして先生のタクトが宙を舞った瞬間、全員がフォルティシモで演奏に入る。
「きれいに入った!そのまま目を離さないで!」
 後ろから後輩たちの金管楽器がどんどん音で押してくる。私はタクトの動きと確認しながら、一瞬譜面を見て、自分のパートに集中する。
「木管は力で押さない!音が崩れてるよ!とにかくていねいに!」
 私は隣のクラリネットの音を聞く。…ユニゾンで4小節、3度のハーモニーで4小節のはずだ。そのあとはファーストの子がソロを取るから、私の譜面は休符が続いている。私は姿勢を崩さないように注意しながら、唇と指に神経を集中させる。

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