Mix Cafe「星空の涙」

カテゴリ: 行き当たり小説

「みとうげぇ?みつがとうげ、じゃなくてぇ?」
 若いタクシー運転手は、大きく私の方を振り向いて、大声で尋ねた。運転手は続けて言った。
「みつがとうげなら行くけど、みとうげ、なーんにもないよぉ?お客さん、間違えてないかい?」
「いや、みとうげ、でいいんだ。確かに何もない。汽車も今の時間はないんだ。悪いが、行ってもらえないか?」
 私は、ステッキの握りをなでながら、運転手に頼んだ。
「いや、行けっちゃー行くけど、そこから戻るか、みつがとうげに行くとなると、2万ぐらい回っちゃうよ?」
「構わない。…帰りのこともあるだろうから、先にこれを受け取ってくれないか」
 私は、上着の胸ポケットから、用意しておいた茶封筒を取り出し、運転手に渡した。運転手は受け取り、中身を見るなり言った。
「いや…お客さん、もらっちゃっていいのぉ?」
「構わない。みとうげに連れて行ってくれるなら、私は構わない」
「そこまで言うなら行くけど、あそこ携帯もつながらないから、待ってようか?」
「いや、私はみとうげに用があるんだ。多分帰りは汽車を使うだろうから、連れて行ってくれるだけでいい」
「汽車ぁ?」運転手はさらに大声になった。「みとうげの汽車、明日になるよぉ?」
「それは良く解っている。何も聞かずに、行ってくれないか?」
 運転手はそれ以上聞かず、レバーを動かすと、車を動かした。

 この町に来るのは20年ぶりになる。私も歳を取った。もうすぐ70になる。訳あって子供もいない。20年前にこの町を去った時の、季節すら覚えていない。只一つだけ覚えている、否、忘れてはならないのは、今日ここから、三峠(みとうげ)の駅へ行かなければならない事だけだ。20年という歳月は長くもあり、私にとっては短くもある。ただ、20年という歳月はこの町の様子をすっかり変えてしまい、三峠へ行く汽車も早朝に一本だけになってしまった。
 三峠の様子は20年前と変わらないだろう。元より、何もない所だ。あるとするならば、風で吹き飛びそうな無人駅と、良い言い方をすれば豊かな自然、一般的には「何もない」、そんな場所だ。だから、タクシーを飛ばして行くとしても、こうして運転手と何らかの交渉をしないと、行くことは出来ない。私は運転手と交渉になるだろうという事は解っていたので、今渡した封筒を胸ポケットに忍ばせていたのだ。もっと大変な交渉になるかと考えていたが、物分りの良い運転手に当たったようだ。そして、封筒が役に立ったことで、私は少しほっとした。
「お客さんは三峠に住んでたことでもあるのぉ?」
 運転手はルームミラー越しに私を見た。
「三峠に家があった覚え、俺にはねぇんだよなぁ」
「話すと長くなるんだ。悪いが急いで行って貰えないだろうか」
 そういうと運転手はふっとため息をついて、アクセルを踏み込んだ。
 私は鞄の奥から、古いビーズの物入れを取り出し、そっと開けた。そして、そこに「鍵」があることを確かめた。確かめた後私は、物入れを閉じ、鞄の奥底に大事に仕舞った。…三峠に行くならば、この「鍵」を必ず持っていなければならない。もし鍵が無ければ、私は運転手にまた幾何かの金を与えて、車を駅に戻さなければならない所だった。
 車は町を抜けて、田畑の中を走り続ける。丘のような小さな山が幾つか見える。そして、その山の向こうに大きく連なった山がある。三峠は、その大きく連なった山の、峠の一つだ。街道から大きく外れているため、汽車はおろか、車すら滅多に走る事は無い。運転手がためらうのも無理は無かろう。車は快調に、舗装された県道を飛ばして行く。この様子なら、三峠には陽の光がある内に着いてくれるだろう。運転手がつけたままにしていたカーラジオからは、遠い北の方の山火事を伝えている。今日この日は、この辺りは平和だという証拠だろう。

 車は段々と山の中へ入っていく。運転手は、慣れた手つきで車を右へ、左へと走らせて行く。私は窓の上の握り手を持ち、振り回されないようにしながら周りの景色を見る。すっかり枯れた川が道に沿ったり離れたりしている。辺りに人の気配はない。対向車とすれ違ったのは、どれくらい前になるだろうか。今ここにいるのは、私と、運転手だけである。
「このあたりに来っとさぁ、コイツも役立たずなんだよなぁ」
 運転手は、メーターの上に設置された、カーナビの隅を指で弾いた。かつっという湿った音が、車の中に響いた。
「あーでも、大丈夫だから。俺ぁもう10年以上転がしてるから、慣れてっからよ」
 運転手はハンドルを持ち換えて、大きなカーブに備えた。私もしっかりと握り手を持った。ふいに大きなダンプが見えたが、運転手は巧みにすり抜けた。
「このあたりはヤツらの抜け道なんだよぉ。警察も来やしねぇから、積み過ぎのヤツらはこっちを通るんだぁ」
 段々と山の中に入っていく。一見何もなく見える丁字路を、運転手は見逃さなかった。そして運転手は、ウィンカーを出して丁字路を山の中へ向けて入っていった。
「三峠に行くなら、あそこ間違えると着かねぇんだ。最近乗り出した若ぇヤツらは、あそこわかんねぇよぉ?」
 私は見覚えのある山道に入ったことで、ほっとした。どうやら、この運転手なら三峠へ行くことが出来るだろう。幾つかの心配事の一つは、タクシーの運転手が三峠への道を知っているかどうかだった。ふとカーナビの画面を見ると、山の中の道でない場所を走ったと思えば、近くの道を走ったりと忙しい。運転手が心許無ければ、カーナビに三峠を入れれば良いのではないかと考えていたが、間違いだった。しかし、有難いことにこの運転手は、三峠への道をしっかりと理解しているようだ。
 ダッシュボードの時計は、午後3時50分を示している。辺りは高い木々に囲まれているので、およそそんな時間とは思えない。私は自分の腕時計を見た。矢張り午後3時50分であった。…三峠とは、かように人里離れ、そして薄暗い道を走らねば着かない、不便な場所だ。20年前はまだ汽車もあったが、先の方でがけ崩れが数年前に起こり、それから復旧していない。汽車はがけ崩れの手前までになってしまった。汽車の本数は一気に減り、今と成っては早朝に1本、1両だけの汽車が往復するだけになってしまった。そして車は、相変わらず大きな木々に囲まれた細い山道を、右へ左へと進んで行く。運転手はふいにライトを点けると、ハイビームにした。
「鹿だの狸だのが出っからよぉ、驚かせてやんねぇとあぶねーんだ」
 運転手はそう言うと、クラクションをぶ、ぶーと鳴らした。辺りは変わらずしん、としている。山の中なのに、風すら吹かないようだ。季節によっては峠おろしという、突風が吹くこともある。どうやら今の季節は心配が無い様子だ。メーターは既に1万6千円を超えている。運転手にはその倍以上の金を封筒に入れて渡してあるので、メーターを心配する様子はない。そしてその金額で、わたしは段々と三峠へ近づいていることを理解した。

「お客さん、わりぃけどしっかりつかまっててくれる?こっから先、胸突き八丁キツいんだわ」
 私は、窓の上の握り手を両手で持った。運転手は、さらに鋭い目つきで道を見つめている。そしてこの運転手の一言で、わたしは三峠は近いことを確信した。運転手はレバーを操作し、ハンドルを操作し、忙しく車を進めて行く。カーブの具合によっては、運転手の額に汗が見える。車はうなりを上げながら斜面を登っていく。あたりはより一層木々が茂り、この先に何かあるのかすら疑わしい景色になって居る。私の記憶が確かであれば、この急斜面を登り切れば、一瞬あたりが開けるはずだ。運転手に先の様子を聞こうと思ったが、運転手は運転に忙しく、声をかけるのもためらわれる。私は運転手を信じることにした。元より、タクシーを運転するのは運転手にしか出来ぬ。私は全てを運転手に任せる事にした。
 登り坂が終わったと同時に、ほんの僅かであるが、辺りが開けた。そして、汽車の線路が見えた。汽車の線路に沿って、朽ち果てそうなホームが見える。…間違いない、三峠だ。私は確信した。
「お客さん、…三峠だよ、ここ。言ったとおり、なーんもないよ?…乗り掛かった舟だから、待ってっから、そこら見てきて、戻ってくれば町へ帰るよ?俺も帰んなきゃいけないし」
「いや、これでいいんだ。私はここに来るためにお願いしたんだ。ありがとう。…渡した分で足りるかな?」
「いやー、これ多少返そうか?悪いよ、俺ぁ車転がしてきただけだもん。流石に仕事だから、全部返すって訳にはいかないけどさぁ」
「いや、戻り車は空だろう。その方が申し訳ない。年寄りのわがままに付き合わせてしまった。礼を言うよ。ありがとう。…さて、ドアを開けてくれるかな?」
 運転手は少し躊躇いながらドアを開けてくれた。ひやっとした空気が流れ込む。風はなく、あたりに音らしきものはない。あるとすれば、車のエンジン音だけだ。私は車から降りた。運転手も車から降りてきた。
「なーにもする場所ないでしょー、ここ。…失礼だけど、何か困りごとでもあったのかい?」
「いや、今日ここに来ることは20年前に決まっていたんだ。…矢張り話すと長いから、あえてこのまま帰ってくれないか?」
「…そこまで言うなら帰るけど、汽車は明日だよ?携帯も繋がらないし。…帰りに駐在さんに話しておこうか?」
「いや、それだけは止めて欲しい。何度も言うようだが、私は三峠へ来るために、あの町へ来たのだから」
「良くわからねぇけど…、そこまで言うなら、戻るから。狸とかにいたずらすると大怪我するから、手は出さねぇ方がいいからなぁ?」
 そう言うと運転手は車に乗り込み、私をじぃっと見つめた後、なにかをあきらめるように車を走らせた。乗ってきた車はどんどん小さくなり、下り坂へ消えて行った。…わたしはふぅっと溜息をついて、少し開けた辺りを見渡した。しんとした空間が、そこには有るだけだった。

 私は、誰も居なくなったことを確かめてから、鞄を地面に置いた。そして、鞄の中から、先程の古いビーズの物入れを取り出し、中から「鍵」を取り出した。「鍵」をズボンのポケットに、大切に仕舞い、古いビーズの物入れは鞄に仕舞った。これから起こることは、真実なのか幻なのか、私にも分からない事だ。しかし、約束をしたことは間違いない。そして約束の日は今日だ。2018年。…20年間、「待った」とも言えるし、「待たせた」とも言える。
 私は、道路を渡り、三峠駅へ向かう。20年前から無人駅だ。近くに集落もなく、乗り降りする客もない。それは、20年前とて同じことだ。「三峠駅」と書かれた建物に入る。建物は荒れ放題で、スプレー缶で落書きをされていたり、窓ガラスが割られていたりする。列車は早朝に1本。だれもこの駅を顧みる事は無いのだろう。しかし、約束の場所は確かにここだ。改札口の右手側に、扉がある。誰もが建物の外に出るための扉だと思うだろう。確かに、建物の外に通じている場所にある扉だ。…この扉を開けるときが来たのだ。私は扉に手をかけた。鍵がかかっている。鍵がかかっていることを確かめて、ポケットから先程の「鍵」を取り出した。恐る恐る鍵穴に差し込むと、「鍵」はぴたりと鍵穴に入った。私は固唾を飲んで、「鍵」を回した。ぐぅ、がたんと、長い間開けられていなかった錠が外れた。私は鞄をまた床に置き、「鍵」を古いビーズの物入れに仕舞い、古いビーズの物入れも鞄の奥底に仕舞った。そして、扉に手をかけた。扉は開いた。私は、心拍が上がるのを感じながら、扉の外に出た。
 扉の外に出ても、やはり三峠だ。誰もいない。ぐるっと建物を回り、道路に出た瞬間、何かの確信を得た。…丁度先程タクシーを降りた辺りに、建物がある。「三峠駅乗車券発売所」と書かれた看板が掛けられている。私は腕時計を見た。午後5時を回ったところだ。鞄に入れていた新聞を取り出す。買った時は確かに2018年と書かれていたはずが、1998年と書かれている。書かれている内容も1998年当時のものだ。彼女との約束は真実であった。私は、新聞を鞄に戻して、建物の扉を叩く。反応がない。もう一度扉を叩いて、反応がないことを確かめてから、扉に手をかけた。扉は開いた。私はためらわずに中に入った。玄関で靴を脱ぎ、廊下をまっすぐ進む。一番奥の部屋の前で、私は声を上げた、
「和恵!」
 やっと聞こえるかどうかの大きさで、中で声がしたのを聞いた。何と言ったのかは分からない。私は部屋の扉を開けた。古い卓袱台の傍らに、見覚えのある女性が座っている。忘れるはずはない。20年間、この時を待っていたのだ。否、待たせていたのだ。
「和恵か」
「…約束どおり、来てくださったのですね」
「ああ」
 私は、すぐにでも和恵を抱きしめたい衝動にかられた。しかし、和恵に触れる事は叶わぬ。よく見ると、和恵の姿の向こうに、見えない筈の部屋の壁が見える事が解った。…20年前に来ることが出来ても、この真実だけは覆す事は出来なかった。私は、20年前の昨日を思い出す。私は和恵の正面に座ると、腕を組み、そっと目を閉じた。

 目の前には、布団に横たわった和恵がいる。顔には生気が無く、元より白い肌がより一層白く見える。時折苦しそうに身悶える。私は立ち上がり部屋を出て、廊下を歩き、乗車券発売所へ向かう。三峠駅が無人駅になる時に、鉄道会社から乗車券の発売をお願いされた。しかし、元より何もなく、誰も居ない場所だ。乗車券発売所の窓口は閉めたままにしている。閉めた儘でも、鉄道会社は事情を了解しているのか、何も言わず、月に幾らかの手数料を払ってくれる。何種類もの乗車券が並ぶ箱の脇にある電話を取って、消防署へ電話をかけた。
「火事ですか?急病ですか?」
すぐに女性の声が聞こえた。ここや、あの町には似つかわしく無い、上品な声だ。
「病人が苦しんでいるんだ。すぐに来てほしい」
「住所はどちらですか?何か目印はありますか?」
「三峠駅の乗車券発売所だ」
「三峠、ですかぁ?」
女性から上品さが消え、少し面倒そうな様子が伺える。
「三峠だと、そうですねぇ、急いで行っても1時間はかかってしまうのですが。向こうの市にお願いしても、同じ位なんですが?」
「構わない。とにかく来てほしい」
「すぐに向かわせます」
「お願いします」
 そう言うと私は電話を置いた。取って返して和恵の許へ戻った。
「消防にお願いした。すぐ来てくれるそうだ」
「…町から、でしょう?」
 和恵は全てを察した様子で答えた。和恵も私も、ここがどの様な場所かは良く理解している。
「急いで、すぐに来るそうだ」
 また和恵は苦しそうに身悶えた。そして私を見つめて言った。
「お願いが、あるのですが」
「何かな」
「…鍵を、鍵を取ってきてください。鍵棚の、いちばん右上」
 私は部屋を飛び出し、乗車券発売所に戻った。発売所の片隅に、駅を管理するために鉄道会社から預かった鍵が何本もぶら下がっている。一番右上の鍵には、目印なのか、小さな毬の根付がついていた。それを手にすると、和恵の許に走った。
「これかな?」
 和恵は、力を振り絞って頷いた。そして、
「それを、大切に持っていて下さい。…改札の右側の扉」
「何故、私が持つのかな」
「…もう、長くはないでしょう」
「弱気になるもんじゃ無いよ」
「…わかるのです。自分のこと、ですから」
 私は何も答えられなかった。
「…あなたは、これから、不可思議な事に巻き込まれます。全ては私のせいです。お許し下さい」
「許すも何も」
「…私を、見ていますか?」
「もちろん」
「…目を見開いているはずが、この後、あなたは瞼を開けます。しかし、それには20年が必要なのです」
「何を言っているのかな」
「…20年経てばわかります。そう、2018年の明日。あなたは瞼を開けるのです。私が、待っています」
「君はそこにいるじゃないか」
「…約束して、くださいますか。20年後の明日、ここで、瞼を開けて、私を見てくださることを」
「ああ、約束するさ」
 来ない救急車にやきもきしながら、私は上の空で答えた。答えた途端、車が止まる音がした。サイレンの音はしない。…役場の車が近くにいたのだろうか。
「車が来たようだ。一寸見てくる」
「待って」
 和恵が、顔をしかめながら力強く言った。そして、
「鏡台の、ビーズの物入れ。それと鍵を、持って出て下さい」
 鏡台を見ると、和恵がいつも持っているビーズの物入れが見えた。私は立ち上がり、物入れを取り、卓袱台の上に置いた鍵を持った。そして廊下を走り、自分でもわからぬが靴を履いて、外に出た。

 外に出たが、車は無い。和恵の許に戻ろうと振り返ったら、発売所の建物は消えていた。何の跡形もない。まるで、最初から何も無かったかのように。私は狼狽し、辺りを見回したり、空を見たりしたが、何も無かった。
 何が起きたのか分からなかった。ふと手に、鍵とビーズの物入れを手にしている事に気づいた。その途端、サイレンの音が聞こえた。

 サイレンの音は、どんどん近づいてくる。目の前に薄汚れた救急車が止まると、浅黒い顔をした初老の救急隊員が降りて来た。
「病人はどこかねぇ」
「それが…ないんだ。消えているんだ。」
「あなた何言ってるかねぇ。」
「ここに、乗車券発売所があったはずなんだ。…あなたも知っているだろう?」
「発売所ぉ?」
 救急隊員は、信じられないといった顔をして、私を見つめた。
「ここは、山火事の時に俺らが車止める所だぁ。三峠は堺だから、ここは連絡所になるんだぁ。そんな所に、乗車券発売所なんか建つ訳がねぇよぉ」
 救急隊員はそう言うと、私の顔をじぃっと見つめた。
「あんたが真っ青だぁ。んにゃ、俺ぁ長いからわかる。あんたが危ねぇよぉ。まず車に乗って。ほら」
 救急隊員にせかされるままに救急車に乗り込んだ。
「ほらシャッツ、前開けて。おーいやっさぁん。市立病院すぐ無線入れてくれよぉ」
 胸に電極をつけられたり、指先になにかをつけられたり、血圧を測られたりしているうちに、ある記憶がない事に気づいた。三峠に来たのはいつ、どうやってだろうか…?
「やっさぁん、128の88、サチュレーションがルームで98、レベルはⅠの1だけど軽い見当識障害ありぃ、サイナスだって無線入れてくれよぉ」
「わかったよぉ」
 そして救急隊員は私の方を向いた。
「…キツネかぁ?じぃさんに聞いたことがあるなぁ。三峠にはキツネいるって」
「キツネ?」
「人をよぉ、騙すから三峠にはだーれも住まねぇって。ほごの駅だって、キツネがおっかねぇって、国鉄の偉い人がだーれもいねぇのに作ったってじぃさん言ってたなぁ。もぉーっとも、最近キツネみたのだーれもいねぇ」
「隊長ぉ!市立来てくれって無線来たぁ」
「すぐ回してよぉ!」
 救急車はサイレンを鳴らすと、峠を越して隣の市へ入っていった。市立病院で緊急検査を受けたところ、脳梗塞が見つかり、数か月入院することになった。…救急車を呼んだ履歴が消防署に無いが、何もしていなければ死んでいたと担当医が説明した。私はその病院で診断書を取った。…和恵と最後にいた日を、正確に残すためだ。

 …私は瞼を開けた。間違いなく、和恵は目の前にいる。手を伸ばしかけたところで、「いけません」と和恵が言った。そして和恵が言った。
「あれから、無事でしたか?」
「食うのに大変だったよ」
 私は笑いながら言った。和恵は真っ直ぐ私を見て言った。
「私が何なのか、もうお分かりになられたでしょう」
「何の事かな。君は私の目の前にいるじゃないか」
「じゃ、どうして今、瞼を開けることが出来たのですか?」
「それは…」私は答えに詰まった。「さっき、君の前で腕を組んで、目を閉じた。疲れたからね」
 私は笑ったつもりでいた。しかし、表情は変えられなかった。そして、
「…君を、愛しているんだ。ずっと、そしてこれからも」
「嬉しいです。けど…」
「けど?」
 和恵は腕を伸ばし、私の手に触れようとしたが、その手は私の手をすり抜けた。その手の向こう側に、畳の目が透けて見える。
「あなたを、騙してしまった」
「私は騙されたなんて思っていないさ」私は言った。「君と出会えた事が、私にとって一番幸せな事なんだ」
「私とあなたは、ここ、三峠だから出会えたのです。いや、私が三峠へ連れて来てしまったのです。…あなたと暮らしたいがために」
「なら、一緒に暮らそう」私は言った。「もうこの歳だからね。子供もいない。君が居なければ天涯孤独だ」
「…なりません」和恵はうつむいた。「…この世のものでは、ありませんから。このままでは、あなたを道連れにしてしまいます」
「なら、本望だな。…愛する人との逃避行、ロマンチックな話だ」
「いけません!」
 和恵は力強く答えた。そして、
「世界が、違います。…私の世界に来てしまったら、二度と人間…」
 和恵は、そう言いかけてはっとした。
「…やはり、私はあなたを騙しています」
「愛する人に騙されるくらい、良くある話じゃないか」
「…あなたは、これから幸せになる運命にあるのです」
「君と暮らす以上の幸せを思いつかないな」
「あなたを20年待たせたのは、もしあなたが幸せをつかんだのなら、多分ここには来ないだろうと考えたからです。そして、ここに来たならば、必ずやあなたを幸せにすると」
「つまり、一緒に暮らせる、そういうことだな」
「いいえ」和恵は力強く答えた。「このまま駅へ行って、汽車に乗って頂きます。」
「汽車か」私はほほえんだ。「なら、今夜一晩、君と共に過ごせるのだね」
「ここは…時の流れが違います。だから、あなたと私は話すことが出来るのです」
「わからないね」わたしは腕組みをした。「何も変わらない。今までと」
「時計を、見てください」
 和恵は、私の左手をじぃっと見つめた。私は、腕時計をしていることを思い出した。そして、袖をめくった。
「…なんてことだ…」
 三峠へ着いたのは午後5時過ぎのはずだ。時計は4時30分を示している。…12時間もここにいたはずはない。
「このまま駅へ向かえば、今日の汽車が来ます。その汽車で、満ケ峠(みつがとうげ)へ行ってください」
「君はどうするのだね」
「…私の世界へ、帰ります」
「一緒に満ケ峠へは行けないのかい?」私は尋ねた。
「…私が一緒では、いずれ、あなたを私の世界へ引き込んでしまいます。やはり、なりません」
 和恵は、私の方へ向き直った。そして、
「お別れを言えて、私は幸せです」
「…どうやら、私も別れを告げなければならない運命の様だな」
 和恵はこくん、とうなずいた。
「…君が違う世界から来たのなら、ひとつだけ願いを叶えて欲しい」
 和恵はきょとんとして私を見つめた。
「何…でしょう」
「君の手を、握りたい」
 和恵は懸命に考え込んでいた。そして、
「瞼を、閉じてください」
 私は言われるがままに瞼を閉じた。冷たいが、しなやかな手が私の右手に触れた。私は力強く、その手を握った。
「そのまま、汽車の音がするまで、瞼を閉じていてください」
「わかった」
 私は答えた。それ以上の言葉が出なかった。和恵は手を振りほどいて、こう言った。
「幸せでした。さようなら」
「私もだよ。願いを叶えてくれて、ありがとう」

 遠くで汽車の汽笛の音がした。私は瞼を開けた。…駅の待合室のベンチに、私は座っていた。そして、傍らには持ってきていた鞄とステッキが置いてあった。私はあわてて鞄を開けた。…奥に、古いビーズの物入れがあった。物入れを取り出して開けると、やはり鍵があった。私はほっとした。
 突然、駅前に車が2~3台止まった。そしてカメラを持った青年が何人も入ってきた。私は何事かと思い、声をかけた。
「何か、あったのかね」
 青年は驚いた顔をして、私を見た。
「じいさん、ここで一晩そうしてたの?」
「話せば長くなるんだ」私は言った。「何か、あったのかね」
 再び尋ねると、青年は呆れたように答えた。
「この駅、っていうかこの線、明日で終わりなんだよ」
「本当かい?」
「がけ崩れ、復旧の見込みなしってことで、ぐるーっと回ってるこの線、がけ崩れごとトンネルで抜けることになったんだ。そんなことも知らなかったの?」
「でも、前の道は残るんだろう?」
「いや、同じくトンネルができてるんだ。開通はちょっとずれて4日後だけど。がけ崩れの後、調査したら前の道、危なくてしょうがないって。補修するくらいならトンネル掘っちゃえって。ちょうどバイパスの計画もあったしね。…俺も車で通ったけど、車でも結構アレな道だなー」
 私は目の前が真っ暗になった。何とかして三峠へ来れば、和恵を弔う事が出来ると考えていたからだ。道も、汽車もなくなってしまえば、三峠へ来ることは叶わぬ。…一体どうすれば、和恵を弔う事ができるのだろうか。和恵は私を幸せにすると言っていたが、私は和恵を弔う事で幸せだと思っていた。
「おーい、列車来るぞー!」
 青年たちは一斉にホームへ走った。私もホームへ向かった。…和恵が言ったとおり、満ケ峠へ行くことにする。満ケ峠へは、列車を使えば1時間もかからぬ。昔からの温泉街で、その昔ながらの風情が、今の若者には新鮮なんだろう。とても賑わっていると聞いたことがある。
 私はホームから、乗車券発売所があったはずの場所を見た。そして手を合わせ、そっと目を閉じた。丁度汽車が、ホームに入ってきた。

 三峠駅に入ってきた汽車は、2両に増結してあったが、それでも満員だった。私が知るここの汽車は、1両でも貸し切りのような状態だった。乗客は皆カメラを持ち、車内の様子や、窓の景色を写している。私はこの満員の汽車で満ケ峠まで行くのかと思うと、少しげんなりした。車掌も車内を回り切れない様子で、車内で切符を買うこともままならない。
 何とか捕まえた吊革を持ちながら、和恵のことを考えていた。どんな形にせよ、和恵と出逢い、暮らせたことは何にも代えがたい幸せだった。声や立ち振る舞い、寝息に至るまで好きだった。私は、正直な所、あの時運ばれた市立病院で軽い鬱状態に陥った。…突如として消えた乗車券発売所は、誰に聞いてもその存在を知らなかった。否、無かったのだ。市立病院の精神科医は不思議な顔をしていた。幻覚や妄想の類にしては、辻褄が合いすぎていると言う。仮に、と精神科医は言った。仮に、その『乗車券発売所』があったとしたら、何の病気とも言えない、と。そして精神科医は、軽い安定剤で様子を見ましょう、と言った。続けて精神科医は、入院もストレスですからね、と言った。初老の救急隊員の機転のお陰で、脳梗塞はほとんど後遺症を残さず安定してくれた。
 あと20分ほどで満ケ峠へ着くようだ。相変わらず車内は満員だった。私は正直うんざりしていたが、和恵が言った幸せにするという言葉を信じることにした。今は何も見えないが、満ケ峠へ着けば何かがあるのかもしれない、と。
 やっとのことで満ケ峠へ着いた。汽車は早朝のみなので、着いたのは午前7時を回ったところだった。観光地だけあって、その時間でも開いている店は沢山あった。私は駅前を見回すと、手近な喫茶店に入り、朝食を取ることにした。その喫茶店は、清潔でサービスも良いが、これが日本全国どこにあっても変わらないだろうという店だった。アンティーク風の内装、よく掃除されたテーブルに運ばれてくる、薄い磁器のカップに入ったコーヒー、そして丁度良く焼かれたトーストなど、どれを取っても満ケ峠である必要はなかった。
 私は喫茶店を出て、観光案内所へ行った。三峠と満ケ峠はそこまで離れていないにも関わらず、満ケ峠の事は私は何も知らなかった。観光案内所では色々な寺社仏閣、温泉の源泉などのパンフレットをくれたが、どれも興味をそそる物ではなかった。私は観光案内所の若い女性に、どこか早くから入れる旅館かホテルは無いかとたずねた。彼女はしばらく思案した後、分厚いファイルをめくって、いくつかのホテルを当たってくれた。そして満ケ峠グランドホテルという、これもどこの観光地にもありそうなホテルを紹介してくれた。そして、送迎の車が見送り客を駅まで乗せてくる帰りに、特別に乗せてくれることになったと言う。満員の汽車に疲れていた私には正直ありがたかった。
 しばらく待っていると、観光案内所の前にマイクロバスが止まった。横に大きく「満ケ峠グランドホテル」と書かれていた。中年で太った運転手が降りてきて、お荷物をお持ちしましょう、と言った。私は大切なものがあるからと断り、鞄とステッキを自分で持ってマイクロバスに乗り込んだ。マイクロバスは満ケ峠の街の中を、するすると走り抜けていった。

 マイクロバスは、大きな車寄せのあるホテルに着いた。私はやはり自分で鞄とステッキを持って降りた。ホテルに入った私は軽い眩暈を感じた。大きな吹き抜けに大きなシャンデリア、広いロビーに点々と浴衣姿の宿泊客、そしてロビーの片隅にある喫茶スペースと、まるで昭和の温泉ホテルを博物館で保存しているようなホテルだった。もしここに森繁久彌率いる社長と部下がいたら、そのまま昭和のあの映画になってしまいそうなホテルだった。
 とりあえず私はフロントに行き、観光案内所で紹介された旨を話した。禿げ上がった壮年の支配人は、平身低頭という言葉がふさわしいほどに頭を下げた。いわく、部屋は用意できるのだが、予約の都合で午後3時に部屋を変わって欲しいと言う。元より私は部屋に特に希望もなかったので、それで構わない、と言った。支配人は、夜の部屋は特に広くて景色の良い部屋を用意したと言う。正直どこでも構わなかったのだが、それは有難い、と私は言った。突然支配人は小声になり、何かご事情が、と言った。何の事か分からなかったので、何か事情が無いと泊まれないかと尋ねた。やはり支配人は平身低頭となり、男性の一人客は、『万が一』の事がありますので、と言った。これは後で分かったのだが、支配人は私が自殺をしに来たのではないかと疑っていたのだ。
 時間が時間なので仲居がつけられないと言われたが、それで構わないと言った。満員の汽車で疲れた身体を休める所があればよかった。支配人は部屋のキーを手渡してくれ、エレベーターを案内してくれた。エレベーターすら博物館級の古さで、止まる時はかなりの衝撃を伴った。壁の案内を見ながら部屋についてみると、部屋は山に面しているものの、古いが清潔で、熱い湯が入ったポットもきちんと置いてあった。私は自分でお茶を淹れ、広縁に置いてある一人がけのソファーで休むことにした。
 ソファーに座りながら私は、和恵と旅行をしたことが無いという事に気づいた。何回か誘う機会はあったのだが、決まって乗車券発売所のことがあるからと断られた。乗車券が売れるのは多くて週に1回、しかも車で訪れる鉄道好きの客が買っていくだけだった。特に数日閉めても、鉄道会社に連絡しておけば問題なかろうと言ったのだが、頑なに和恵は旅行をすることを拒んだ。…今思えば和恵は、三峠にいるからこそ和恵であったのかも知れない。

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