…気づいたら眠り込んでいたようだ。部屋の扉をノックする音で目が覚めた。返事をすると、仲居が新しい部屋に案内すると言った。私は鞄とステッキを持ち、仲居についていくことにした。仲居はやはり最初鞄を持とうとしたが、大切なものがあるからと断った。通された部屋は、満ケ峠を一望できる場所にあった。
「夜はぜひ星空を眺めてくださいね」
 仲居が言った。不思議に思い尋ねた。
「何か変わった物でもあるのかな?」
「皆さん、星が綺麗だったってお喜びになって帰って行くんですよ」
「そんなに綺麗なのかね?」
「私はここの生まれなので、他がどうだか解らないんですよ」
 仲居は笑って答えた。そして、
「お食事は18時になりますがよろしいですか?」
「構わない」
「では、ごゆっくり」
 仲居は正座をして襖を閉じ、去って行った。
 温泉に入ろうかとも思ったが、面倒になってしまった。部屋の浴室に湯を張り、それに入った。そして、やはり広縁に自分で淹れた茶を持って行き、外を眺めていた。段々と日が落ちて行って、夕日が山の間に沈んでいった。
 食事は豪勢と言っても言い過ぎではない程立派だった。山の中の筈なのに、沢山の刺身が出た。私は内線電話で部屋係を呼び、冷酒を2本用意させた。程なくして仲居が冷酒を持ってきた。私は一計し、食後に冷酒を持ってこれるか聞いた。構いませんと言うので、食後に2本、冷酒を用意するように頼んだ。私は冷酒と刺身で、2日ぶりにまともな夕食を取ったことを思い出した。
 食後に仲居が食器を下げに来て、次いで冷酒を持ってきた。私は広縁に持ってこさせた。仲居は1本広縁のテーブルに置き、1本は冷やしておきますと言って、冷蔵庫に入れた。そして、
「今日はお月見日和ですね」
 私は言われるまで、月が出ていることに気づかなかった。
「あぁ、きれいな月だ」
 私は言った。そういえば和恵は月見が好きだった。最終の汽車が過ぎると、団子やら饅頭やらをこしらえて、私を縁側に誘った。私は月を見ながら、幸せな月見のことを思い出していた。
「中国では、狐は月の光を力にするそうですよ。おじいちゃんから聞きました」
 仲居が言った。
「月の光を、力かぁ」
 私は冷酒を口に運びながら、月を見ていた。
「もっとも、おじいちゃんもその話をどこで聞いたのか、解らないんですけどね」
 仲居は笑って言った。良く笑う仲居だ。嫌な感じではない。自然な笑い方だ。仲居は布団を敷き終わると、
「この部屋は特に夜空が綺麗に見えますからね。私も空いている時は、こっそり見に来るんですよ」
 仲居はまた笑って、ではごゆっくり、と、正座をして襖を閉めた。

 私は、ずっと月を見ていた。そのうちに、和恵の言う違う世界は、月にあるのではないかと思い始めた。もちろん、アポロ宇宙船が月がどの様な場所かは見てきている。しかし、和恵と一緒に見た月の光も、今夜ここで見る月の光も、何の違いがあろう。月が見える限り、和恵はきっと、そこにいる。月の満ち欠けで月が見えなくとも、月がなくなる訳ではない。恐らく、私が死ぬまで月はあるだろう。狐が月の光を力にするならば、和恵と暮らした私も月を見れば幸せになれるのかも知れない。…1998年の月も、2018年の月も、月であることに変わりはない。
 …そうか。和恵は自分の代わりに月を見せようと、満ケ峠へ案内してくれたのかも知れない。確かに三峠で和恵と別れたが、月がある限り和恵はそこに居る。私は2本目の冷酒を口にしながら、また和恵と暮らせる日々が来たのだと、盃の酒に映る月を見ながら、おかえり、と言った。

-終-