Mix Cafe「星空の涙」

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『1435、第一次線を突破。これより職員室包囲に入る』
「戦線を維持せよ」
『了解』

 机の上には、連絡用の携帯電話が並んでいる。ここは、どこにでもある学校の音楽室。いつもと違うのは、不要な机は後ろに片づけられ、ロの字型に並べられた机の一番向こう側に、「委員長」が真剣なまなざしで座り、「委員長」のまわりを「各委員」が忙しく動いている、ということ。
「委員長!」
「なに」
「連絡手段は本当に携帯電話で良かったの?」
「…他に手段がないから。確かに私たちで入手できるトランシーバーはある。けど、出力も弱いし、何より体制側に筒抜け。アナログだからね。現状あるインフラは活用しないと」
「連絡が途切れることはないの?」
「大いにある。まず、近隣の基地局の電源を落とされたらそこまで。あと、ここまではしないと思うけど、ジャミングされても一巻の終わり」
「なので」となりに座っていた生徒会書記長が私の方を向いて言った
「時計合わせをして、行動が成功したかどうかは、ここから見える場所になんらかのしるしをつけている。何度も訓練したとおりよ。…ほら、保健室の前に鉢植えが二つ並んだ。職員室包囲に成功した、という意味よ」
『1440、職員室包囲に成功!』
「予定どおりに行動せよ」
『了解』
 昨日、体育館で行われた、「生徒委員会総会」で選出された「委員長」は、浅野幸。もっとも、総会は浅野さんが委員長であることを「確認」したに過ぎなかった。浅野さんは、生徒会の実権を見事に握ると、各クラス、そして各部に、浅野さんの腹心を置いた。…じわじわと、浅野さんの「思想」が全校に染みわたった。けれど、浅野さんは決して目立った行動には出なかった。「これは準備」、浅野さんの口癖だ。…学校をいくつかのブロックに分け、「自主清掃」という名目で、今日の「職員室・校長室包囲」の練習も何度も行われた。そして、…成功すればだけれども、体育館で行われる「第二回総会」で、学校職員も生徒と平等、…という名目の、「浅野体制配下」に置かれる予定。
 突然、腕組みしていた委員長が、携帯を2つ持ち、ちっと舌打ちした。
「想定より早かった。通常連絡手段は不通!鏡の用意!」
「はいっ!」
 委員長は携帯を机に投げ出した。画面の隅には、はっきりと「圏外」と表示されていた。…委員長は、これも予想していた。鏡とライトを使えば、「連絡員」の配置によって連絡はできると。「自主清掃」の何回かは、鏡とライトを使った通信で行われた。
「委員長!」
 窓際の連絡員が叫んだ。
「1458、全職員の確保に成功したようです」
「…ようです?」
「失礼しました!全職員の確保に成功!」
「予定どおり、体育館へ」
 委員長は堂々と立ち上がると、
「我々も、体育館へ向かう」
『はっ』
 各委員、そして生徒会書記長は、いっせいに立ち上がって、委員長に続いた。

 私には、「壮大なる計画」がある。今の日本で、高校生で、こんな計画を思いつく人間は少ないと思う。けど、やりたい。いや、やってみたい。
 まず私は、集団としてまとまりがあって、かつ人数も多すぎず少なすぎず、そして「がちがち」ではない、「吹奏楽部」を選んだ。体育会系では難しい。先輩の言うことは第一だし、何より「目標ががちがちに設定」されている。私の計画が入り込む余地がない。私は、学校見学の時から色々な吹奏楽部を見て来た。コンクールに向かって猛練習をしているところ、少ない人数で仲良しごっこをしているところ、どれも「計画」には不適当、と私は判断した。この学校の学校見学で、吹奏楽部の雰囲気を見たとき、「ここだ」と思った。コンクールや定期演奏会は行っているけど、「がちがち」ではなかった。部の雰囲気は柔らかくて、先輩は優しかった。たぶんここでなら、私の「計画」は実現するかもしれない、と思った。
 入学後、私は「目立たないこと」を常に意識した。けれど、目立たな過ぎて友だちがいない、これは「計画」には致命的。私はクラスで、吹奏楽部で、声をかけてくれた人には必ず良い印象を残すようにすることを忘れなかった。おかげで、「人なみ」の友だちができた。第一の目的は達成された、と言えるだろう。
 そして、三年間と言う短い期間をどう使うか考えた。真っ先に生徒会役員ということも考えたが、あえてしなかった。そう、上級生の存在。スタンドプレイが過ぎると浮いてしまうし、なにより「計画」に気づかれてしまう。
 そこに見えたのが「選挙管理委員」だった。生徒会を思い通りに動かすためには、まず「選挙」に勝たなくてはいけない。「選挙を知ること」に関しては、選挙管理委員は最も適した手段だった。運よくだれも希望者がいなかったので、あっさり選挙管理委員になることができた。そこで私は、資料集めに徹した。生徒会役員選挙では、ものすごい量のプリントを作る必要があった。なので、私が印刷室に出入りしていることは、どの先生も疑わなかった。選挙案内から選挙公示、投票用紙作成、そして投票結果まで、私は印刷室へは出入り自由だった。そこで少しずつ、「公正な選挙をたもつために」残されていた、過去の選挙演説の原稿や、何よりその時の選挙演説の原稿の写しを作って、自分の部屋にファイリングすることができた。…次回選挙へは、ものすごいアドバンテージだ。
 吹奏楽部員としても、目立たず下手過ぎず、「ワンオブゼム」に徹した。演奏会への準備さえできていれば、空いた時間に何をしていても何も言われなかった。他の楽器を演奏してみる人、おしゃべりに夢中になる人の中で、わたしは「本好き」という立場を得ることができた。もちろん「古典」を読みこなすためだ。私は駅のそばの大きな本屋で、おこづかいをはたいて、茶色い、厚い革のブックカバーを手に入れた。少し大きな文庫でも、タイトルは誰にも気づかれることはなかった。そして、機が熟すのをじっと待っていた。熟さなければ、自分が矢面に立つこと、ここまで覚悟していた。
 そこにきて真子の「刺激が欲しい」は最高のチャンスだった。真子は吹奏楽部長としてリーダシップがあり、裏表がなく、さっぱりしていた。何より、「流されやすい」。私はあの時、本を読むふりをして頭をフル回転させ、どう出れば真子が乗ってくるか、それだけに集中した。仲間がいる、そうひらめいたときに後輩の岡山さんが使える、と判断した。私と真子になついて、いつもそばにいたし、何より日記を書いていた。しかも、毎日欠かさず。「資料」を検討した結果、「結果を出す文章」を書くには、とにかく文章を書くトレーニングが必要と言う結論に達していた私にとって、いつか必ず「巻き込む」べき、そう判断していた。もちろん、「計画」を思いついてから、私も文章トレーニングに励んでいたことは言うまでもないだろう。問題はいつ巻き込むか、だった。そしてそれは成功した。
 真子―岡山さん―私という関係を考えると、動いてもらうのは真子と岡山さん、私はアドバイスと言う名目で、表に立たず、二人を動かすことに集中すればいい。表に出るのは、きちんと第一段階が終わってから。私は「計画」の第一段階が実行に移ったことを、その時確信していた。

「あーなにか刺激が欲しい」
 御木本先輩が、飲んでいたジュースのストローをくわえたまま、椅子の背にどっかともたれて、手を頭の後ろで組んでいた。
「欲しければ、作ればいいんじゃない?『刺激』」
 浅野先輩が、読んでいた本から目をはなさずに答えた。そういえば、浅野先輩はいつも本を読んでいるけど、何を読んでいるかはわからない。いつも本には茶色い革のカバーがかかっているからだ。…一回覗き込んじゃったことがあるけど、何か字がいっぱいで、よくわからなかった。ただ、小説とかじゃないことだけはわかった。
「はほえばはにおー」
 御木本先輩は、本当に手持ちぶさた、っていう感じで、ストローを口の中でかみつぶしていた。…今の言葉は、「たとえばなによー」と言いたかったんだろう。
「真子は部長じゃない?そして、去年の生徒会役員選挙に出た、とかね」
「じょうだん!」
 御木本先輩がとつぜん椅子から立ち上がって、浅野先輩の方を見た。…右手にはぐちゃぐちゃになったストローが握られている。
「よくわかんない多数決で、むりやり候補にさせられたんだから!演説だって、やる気がないことがわかっちゃうと先生に怒られるから、三日は夜遅くまで原稿書いたんだから!」
 すると、そんなことは気にもかけていないという風に、浅野先輩がページをめくりながら答えた。
「…にしては、まんざらでもなかったように見えたわよ、選挙演説。青春よねー、生徒会役員選挙」
「…茶化すつもり…?」
 御木本先輩がだんだんとヒートアップしてきているのがわかる。対して浅野先輩は、そんなの気にしていない、という風に、本から目を話す様子はない。…用事があるって言ってここを離れちゃおうか、一瞬考えた。
「その時さ、演説の原稿を書いてくれる人がいたとしたら?」
「…どういうこと?」
 座っていた椅子をくるりと返して、椅子の背中に肘をついて、御木本先輩が浅野先輩を見つめた。
「つまり、選挙のブレインがいたら、ってことよ。真子がひとりで苦労するんじゃなくって、みんなでできたら、ってこと。…そしてもうすぐ、生徒会役員選挙が始まる。『刺激』としてはじゅうぶん、なんじゃない?」
「そういえば」私はつい口をはさんでしまった。
「クラスのうわさで聞いたんですけど、何かすごい演説をした人がいる、って」
「あー、あの人か」
 浅野先輩は本を閉じて、私の方を見た。
「あの人は特別というか、天性よね。才能。あの演説、原稿どおりじゃなかったんだから。ううん、原稿になかった、が正解かな」
「なんで幸がそこまで知ってるのよ?」
 御木本先輩が、浅野先輩に向かって、いかにも疑っている風に聞いた。…確かにそうだ。私もなんで?って思うし。
「去年の選挙管理委員、私がやったから」
『えーっ!』
 御木本先輩と私は、声をそろえて驚いた。…来月が生徒会役員選挙で、そろそろ生徒会役員選挙のうわさが立つころ。そのうわさの中で先輩たちから聞いた話だと、目立たないし、やることだけはいっぱいあるしで、誰もやりたがらないのが、選挙管理委員だって聞いていたから。
「つまりよ?」
 浅野先輩は本をかばんにしまって、私たちの方を向いて座りなおした。
「刺激を求めている二年生がいる。夏の野球部の応援まではまだ間がある。その間に生徒会役員選挙がある。…そして、選挙のことに関しては詳しい人間がいる。で、岡山さん」
突然名前を呼ばれたのでびっくりして、危うく立ち上がるところだった。
「私が、なにか?」
「確か日記をつけてるのよね?」
 うっ、と私は思った。確かに、毎日日記をつけてから寝るのが私の習慣だけど、この話題になんで私の日記が、って思った。
「日記はつけてますけど、それが何か」
「毎日自分の文章を書いている、ってことよね?」
「文章なんて、そんなりっぱな物ではないです」
 浅野先輩は何を考えているかさっぱりわからない。ただわかることは、浅野先輩の頭の中には、何かの考えがある、ということ。浅野先輩は窓の方を見ながら言った。
「日記ということは、自然と文章のトレーニングをしているってことよ。無意識にね。岡山さん、国語の成績悪くないでしょ?」
「不得意では、ないです」
 浅野先輩は何か面白いおもちゃを見つけたように私を見た。そして、
「ということは、真子の選挙演説の原稿も、書けそう。そうよね?」
「むりです!!」
 私は思わず立ち上がって叫んだ。人に見せるための文なんて書いたことないし。それが選挙演説の原稿なんて。
 浅野先輩は、私の驚きは気にしないという風に、話を続けていった。
「ほら真子、揃ったでしょ。部長として部をまとめているという実績、今の吹奏楽部は決して小さな部じゃないから、リーダーシップとしてはじゅうぶん、ってこと。そして真子が苦労した演説の原稿、これは岡山さんが書いてくれそう。で、選挙活動については私が知っている。『刺激』としてはりっぱ、だと思うけど?どうせ立候補者なんて出ないでしょ?」
「そりゃあ」御木本先輩が浅野先輩を見つめて言った。「…多数決の推薦、だいたいうちの学校ではそうじゃない?」
「じゃ、立候補しちゃえばいい」
『えーっ!』
 御木本先輩と私は声をそろえて言った。今日は何回、浅野先輩に驚かされるんだろう。
「ひとりで立候補、だと誰だっていやだけど。ほら、ここにはもう、二人手を貸してくれる人がいる。私と、岡山さん。バックアップ体制としてはかなりのものだと思うけど?」
 何かすごいことに巻き込まれている、それだけはわかった。
「ひとりじゃないんだったら」
 御木本先輩は立ち上がって言った。
「最後のチャンスだから、出るか!生徒会役員選挙!」
 これが学校を巻き込んだ大きな波になるとは、私も、御木本先輩も気づいていなかった。けれども、浅野先輩だけは「最後のゴール」をその時見ていたんだろう。不思議なことに、その時楽器を練習している子は誰もいなかった。

 僕は鉛筆削りを持ち、HBの鉛筆を5本、きちんと削った。鉛筆削りを本棚にしまい、鉛筆を5本、きちんと揃えて、原稿用紙の脇に置いた。僕が文章を書く時の、「儀式」のようなものだ。「儀式」をおろそかにすると、何かとんでもないこと、例えば突然竜が僕の部屋に現れて、大暴れをするんじゃないか、そんなことを僕は考えてしまう。
 「儀式」を終えてふと、「彼」のことを思い出した。「彼」は僕以上に、「儀式」を重んじるタイプだ。「彼」は決して、アド・リブで文章を書いたりしない。「彼」が文章を書くときは決まって、「彼」の文章が走り出して、「彼」の道を安全に走り、文章をきちんと車庫に入れて、トランクから銀色のカバーを出し、文章にかけ終わるまでのイメージが出来上がらない限り、文章を書かない。例え編集者が何台ものバイク便を「彼」のもとに走らせても、「彼」は絶対に自分のやり方を曲げることはしない。おかげで僕は「彼」が書くはずだった何本かの仕事を、「彼」の代わりに書いて、収入にしたことがある。…少し後ろめたい気分になるが、「時間」は「彼」のまわりでも、僕のまわりでも、同じ早さで流れている。仕事で文章を書くには、どうしても「時間」に振り回されることがある。そして僕は、「時間」より早く文章を書くことだけは、「彼」より上手かった。
 僕は窓際へ向かい、厚いカーテンをしっかりと閉めた。そして机に戻り、時計を見た。午前2時を少し回ったところを確かめ、時計から電池を抜いた。「こと、こと」という音が部屋から消えた。…残された「時間」は3時間。時計の音すら僕を邪魔しないでほしい。僕はすぅっと深呼吸をして、一番左の鉛筆を右手に持った。僕は軽く目を閉じ、書く文章のイメージを確かめた。僕は頭の中で、右から、左から、そして正面から、文章のイメージを確かめた。よし、と僕は声を出さずに口にした。そして僕は目を開いて、イメージを文字にすることだけに集中した。かり、かりという鉛筆が原稿用紙の上を走る音だけが、僕の部屋に響いた。僕は頭の中でイメージを逃がさないようにしっかりと見つめ、少しの狂いもなく文字にすることだけに集中した。
 「かたん」と僕は鉛筆を置いた。そして原稿用紙をとん、とんと整えて、電話に向かった。そしていつものように、エージェントへ電話をかけた。エージェントは電話に出るなり、「4時23分」と言った。そして、「君らしい時間だね。オーケー、あと15分でバイク便が行くから、そいつに渡してくれ」とエージェントは言い、一方的に電話を切った。僕は窓のカーテンを開けた。僕にとって騒々しい東京の夜が、僕の部屋に帰ってきた。僕は机から時計を持ってきて、電話で時報を聞きながら時計を合わせた。4時25分、僕の部屋は「儀式」をする前と同じ、騒々しい東京の夜の部屋に戻った。僕は戸棚からウィスキーの瓶を取り出し、いつもと同じように、2口、瓶のままウィスキーを飲んだ。そしてふぅっと息を吐き、仕事が終わったことを確かめ、そっと目を閉じた。…すべてが「儀式」のように、仕事が終わった。僕はとんっ、と、頭の中に残っていた文章のイメージを、部屋の空気の中に解き放った。

 他人の原稿は五分に一遍覗きに来る癖に、自分の原稿は放ったらかしの友人が居る。先程も何か変わった事は無いかと覗きに行ったが、原稿用紙には週末に書かれた大陸語の話が其の儘に成って居た。本来の私は独逸語の教師の筈だが、偽物の私は覚束ない大陸語にひいひい云っている有様である。此の間などは其の友人に騙されて辞書まで買わされた。尤もその辞書のお陰で、此の様に偽物の「捏ち上げ」に磨きが掛って居るのだから、本来は感謝すべきなのかも知れない。けれども、彼の處の昨日と寸分と変わらぬ原稿用紙を見るに附、何とか成らぬかと云いたくなって仕方が無い。
 彼は明治、大正の文学を好むと云う。私は歴とした明治弐拾弐年生である。あるが、残念乍ら私は昭和者が造る「捏ち上げ」である。何処迄「ほんもの」に化ける事が出来るかと、昭和者は文庫や字引を引っ繰り返しては、押したり引っ張ったりして喜んでいる有様である。「ほんもの」としては堪った物では無いが、既に口が利けぬので云われるが儘にしているのである。私は在りし日に撮られた、駅長の制服を着て「はと」の展望車に乗り、眼光鋭く収まった写真が在る。今の私に出来るのは、その写真を通して昭和者を睨み付ける事だけである。
 其れにしても彼は原稿を書く様子が無い。此方から彼の様子を伺う術は無いが、辛うじて見える原稿用紙は土曜の夜更けに書かれた儘である。彼は熱心な研究家で或るから、若しかすると彼は研究の真最中なのかも知れない。そして昭和者は此処にうっかり村上春樹が混ざりそうになり、真っ青な顔で頭の中の筋書きを書き直して居るのである。私一人を真似るだけでも戦後教育の昭和者には大変な作業の筈なのに、何故そんな器用な事が出来るのか。そんな器用な事が出来るので有れば、何か金になる仕事でも手に付ければ良いものを、と「ほんもの」の私は考えるのである。
 大分夜も更けて来た。相変わらず彼の原稿は変わる様子が無い。恐らく今夜中に彼の新しい原稿を読む事は叶わぬ事であろう。そして昭和者は明日郵便局に提出せねば成らぬ書附の事を思い出し、真っ青な顔で万年筆にインキを吸わせ始めた所である。既に偽物か「ほんもの」か判らなく成った私は、積み上げられたり引っ繰り返された字引や文庫の間に、所在なく只眼光鋭く平成最後の秋の夜を睨みつけて居るのである。

 「書け」と云う。引き受けたのはこちらなので、こちらの都合なのだが、相手にも都合がある。原稿を渡すと云ったのは一昨日の話なので、列車で例えるなら可成りの遅れである。然しながら、あっちを押しても、こっちを押しても、思い浮かばないのである。傍らには出版社からの遣いが待っている。最初は正座していていたが、余りにこちらがのんびりしているので、すっかり崩れてしまい、私が積んでおいた本を勝手に捲っている。其れ位は目鯨を立てずに居ないと、何を云われるか分からない。何も書いていない原稿用紙を前に、うーん、うーん、と、唸っているのである。
 少しは文章らしいものが浮かんだので、数行書いたが、どうにもこうにも、据わりが悪い。書いたはいいが、まるで馬車が何台も通り過ぎたような散らかった文章で、とても人様にお渡し出来る物ではない。原稿用紙は丸めて、屑箱へ放り込んでしまった。
 また真っ白い原稿用紙の前で、欠伸をしてみたり、伸びをしてみたりしているが、浮かばないものは浮かばない。出版社君を帰してしまいたいが、彼は彼で都合があるだろう。手ぶらで会社へ帰ると云うことは、彼にとっては仕事を放棄したことになる。矢張り原稿を受け取るまで、傍らにずっと控えているのだろう。
 字引を引くふりをして、時刻表を開いてみた。東海道本線を開いたので、きらびやかな特急列車やら、地味な普通列車やらが、まるで見本市のように並んでいる。今直ぐにでも乗りに行きたい気もするが、最大の問題は目の前の原稿用紙である。真っ白い儘では、何も出来ない。自分から鳥籠の中に這入ったような感じだ。
 細君が、夕食はどうする、と云う。うまい具合に都合をつけろ、と云った所、ぷいと障子を閉めて行ってしまった。細君には細君の都合があるのだろう。
 やっと万年筆を持ち、のろ、のろ、と、文章らしき物を捏ち上げ始めた。出版社の遣いに渡してしまえば、内容はどうであれ、先づは原稿を持って出版社へ帰るだろう。田舎の鈍行列車のような速度で、のた、のた、と、捏ち上げた文章は続く。捏ち上げないと、私は鳥籠から出ることが出来ない。自分から這入った鳥籠から出られないというのは、理不尽でもあり、当然でもある。
 やっと捏ち上げが終わった。もう読み返す気も起きず、出版社君に渡してしまった。出版社君は原稿を一瞥し、先生有難う御座いましたと礼を云い、帰って行った。そういえば夕食を食べていない。細君を呼ぼうかと思ったが、ぷいと行ってしまったのだから、私から頼み事はし辛い。私は其の儘畳へ寝っ転がって、つまんないの、と呟いた。

 音もなく開いた部屋からは、黴や、以前住んでいた人の臭い、放置された家特有の澱んだ空気が流れてきた。とにかく散らかっている。ひどく散らかっている。足元に気をつけながら、「あるところ」へ向かう。
 「あるところ」には、今回の仕事で使えそうな「物」がある。ものすごい埃と黴だ。以前住んでいた「僕」の「昔の姿」でもある。ジョン・バーリコーンが言う。「俺に呑まれていた昔はどうだい」と。やれやれ、君とは長い付き合いだったよ。切っても切れないね。でも、君とはさよならをだいぶ昔に言ったはずだ。「君」がささやいたその声は、時間のゆがみから来ているのだろう。ここまで「放置」していた所だ。ちょっと「時間」がおかしくなっても、少しも不思議とは思えない。むしろゆがんだ時間こそ、この場所に似合う。
 さて、早くここを去りたい。…ひどい姿だ。「昔の仕事」とはいえ、君はこんな姿だったのかい?いや、君の姿は過去の僕そのものだ。僕は「過去」を「封印」ではなく、「断ち切る」必要がある。乱暴に、でも丁寧に、仕事に使う道具を取り出す。使えるものなのかどうか、僕にもわからない。今の僕にできることは、とにかくこの部屋から必要な物を取り出し、部屋の扉を閉め、錠をかけて、なにかを「断ち切る」ことだ。
 必要なものはあった。一つだけ計算が狂った。「あるもの」が壊れている。いや、過去を断ち切るためには、それを新たに用意するのも悪くない。こん、こん、と咳が出た。これ以上この部屋にとどまっていることは無理なようだ。物を掴んで、抱いて、部屋の扉を閉めた。すぅっと「何か」が消えた。そして、「現在」が戻ってきた。一体君は、なにをしてきたんだ?と、「過去の僕」に問いかける。
 がちゃんと音を立てて錠がかかった。短い過去への旅だった。できれば、こんな旅はしたくない。けれども、この「部屋」を尋ねるたびに「過去」への扉が開く。部屋の扉は「過去への扉」だ。がた、がた、と錠がかかったことを確認して、朝日の中に出る。平和な、何事もない朝だ。自転車に乗った人が、音もなく通り去ってゆく。僕は目を閉じ、首を振った。…大丈夫、これは現実だ。現実の朝に戻っただけだ。僕はこの場所に、過去の僕すべてを置いてゆくことにする。
 朝日の中を、僕は歩いてゆく。スニーカーは音を立てず、僕を一歩一歩「現実」へと運んでゆく。何事もない、平和な朝だ。歩きながら僕は、手にしている「物」を見る。使えるものかどうかは、あとで考えればいい。部屋の扉は、現在へ戻ってゆく僕を見送っている。僕は決してその方向を見ないようにする。犬を連れた上品な婦人とすれ違う。僕はまっすぐ、自分の住む場所へ、「現在」へ歩いてゆく。僕は部屋が見えなくなるまで、目線を上げ続けることを忘れなかった。

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